ウガンダ生活

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「生きづらさ」との格闘と、読書10

社会以前へ

こんな風にして私の「生きづらさ」は時間をかけ、紆余曲折をへて、ときに思わぬことをきっかけにしながら、少しずつ軽減していきました。

もちろんいきなり全てが怖くなくなったわけではありません。依然として将来への不安はあるし、発作的な孤独感に襲われて夜眠れなくなることもあります。けれども、全体として私の人生はずっと楽になりつつあるように感じます。少しずつ、他人に嫌われることも、一人でいることも、平気になってきている気がします。といっても今後、さらなる課題が立ち現れてくることは間違い無いと思われますが・・・。

最後に、一番最近私が深く感銘を受けた書籍を紹介して一連の記事を終わりにしようと思います。ジョーゼフ・キャンベル&ビル・モイヤーズの「神話の力」です。 

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 内容あらすじ:

世界中の民族がもつ独自の神話体系には共通の主題や題材も多く、私たちの社会の見えない基盤となっている。神話はなんのために生まれ、私たちに何を語ろうというのか?ジョン・レノン暗殺からスター・ウォーズまでを例に現代人の精神の奥底に潜む神話の影響を明らかにし、綿々たる精神の旅の果てに私たちがどのように生きるべきか、という問いにも答えていく。神話学の巨匠の遺作となった驚異と感動の名著。

もともとこれといって神話に関心があったわけではなく、この本を手に取ったのは全くの偶然でした。けれどここまでに紹介した他の書籍と同じく、「これはまさに今の私のために書かれた本だ」と思ってしまうような、私の知らなかったこと、知りたかったこと、知っていたけれど言語化できないでいたことの多くを、キャンベル先生はここで語っています。

人生の不都合な点はみんな両親のせいにするがいい、とフロイトは言っています。マルクスは、みんな社会の上流階級の責任だという。しかし、責任を負うべきものは自分自身です。・・・偶然に生じたのでは無いことが、あなたの人生にあるでしょうか。これは、偶然を受け入れることができるか否かの問題です。最終的には人生は偶然で成り立っている

フロイト的原因論にも、マルクス哲学にも心酔した経緯のある私にはなんと耳に痛い言葉でしょうか・・・。そして最後の一文は、ニーチェのごとき生の絶対的肯定を思わせます。偶然で成り立っている生を肯定するとは、そこに含まれる喜びだけでなく、苦痛も共に受け止めるということです。 

生きることのすべては悲苦である、とはブッダの最初の教えですが、まさにその通りですね。生きることに「はかなさ」が伴わぬかぎり生とは言えません。はかなさは悲しみですー喪失、喪失、喪失。あなたは生を肯定し、このままでもすばらしいものだと見るべきです。

さて、長い間私は「生きづらさ」をあくまで自分に固有のものとして見てきました。だからこそその原因を生い立ちや家庭環境に求めていたわけです。けれどもこの本を読んで新たに思い当たった可能性は、そもそもこういった感情は極めて当たり前のものであり、社会の中にあふれているだけでなく、社会以前の人類にも存在していたのではないかということでした。

キャンベル先生によれば、世界中のあらゆる文化圏の神話にはひどく似通ったシンボル、隠喩、物語、元型が登場します。このことが示唆するのは、人類に共通の無意識のあり方が存在するということです。ユングの夢分析に触れてキャンベル先生は言います。

神話は公的な夢であり、夢は私的な神話である。

ここに見られるのは、誕生から死にいたるまで、人類の歴史を通じて最も普遍的な人生のあり方、感情のあり方、そして苦悩のあり方です。例えば、決して避けられない死とどう向き合うか、といった。

ちなみに彼は伝統的宗教や神話に登場する個別のエピソードの多くを、あくまで隠喩として理解されるべきものとして、特に宗教の教義そのものを文字通り盲信することは批判しています。非常に合理的な人です。

科学と神話は矛盾しません。科学は今や神秘の次元に突入しています。

以前であればいまいちピンとこなかったと思うのですが、宇宙科学に触れることよってこの世の存在の摩訶不思議を痛感した後の私は、彼のこのような発言にもとても納得が行くようになりました。 

さて、キャンベル先生は「生きづらさ」に向き合う術についてのみでなく、人生の積極的な意味についても語っています。

私が一般論として学生たちに言うのは、「自分の至福を追求しなさい」ということです。自分にとっての無上の喜びを見つけ、恐れずそれについていくことです。

ここで語られているのは社会やシステムにとってではなく、あくまで自分個人にとっての意味、価値の話です。これにもまた私は深く共感しました。というのも私にとってこの生はただの一般的な生ではなく、後にも先にも私という個人がただ一回限り生きることのできる、固有の経験として立ち現れてくる、むしろそれ以外のいかなる立ち現れ方もしないものであるということを、最近骨身にしみて感じるようになったからです。

今の私にとって「自分の至福」とは、本を読むこと、美しいものを鑑賞すること、そして美味しいものを食べることです。正直に言って、子供の頃自分が描いていた理想の大人像からすると、個性にもパンチにも著しく欠けています。けれど本を読んでいて新しいアイディアに出会えたときや、美しい音楽を聴いたときに私が感じる喜び、美味しいものを食べた時の感動は、私にとって他のいかなる価値にも代えがたい、かけがえの無いものです。そして理屈抜きに、こういったことを体験するためにこの限られた人生を使うことが、今の私には最も価値があるように思えます。

 

さて、とんでもない自己満足の長文記事でしたが、最後まで読んでいただいた奇特な方には、何か少しでも発見や面白みがあればと願うばかりです。どうもありがとうございました。

最後に、この本の中で私の一番好きなキャンベル先生の言葉で締めたいと思います。

いきいきとした人間が世界に生気を与える。これには疑うよりはありません。生気の無い世界は荒れ野です。人々は、物事を動かしたり、制度を変えたり、指導者を選んだり、そういうことで世界を救えると考えている。ノー、違うんです!生きた世界ならば、どんな世界でもまっとうな世界です。必要なのは世界に生命をもたらすこと、そのためのただひとつの道は、自分自身にとっての生命のありかを見つけ、自分がいきいきと生きることです。