マリリンと私2
②つくり込みマンソン
マリリン・マンソンは、ただのバンドではありません。それは一つの概念であり、象徴であり、そして何よりも作り込まれた人為的なコンセプトなのです。私にとってこのバンドがもたらした最大の衝撃はそこにありました。
わかりやすいのはなんといってもバンド名でしょう。50年代アメリカを代表するセックス・シンボルであるマリリン・モンローと、60〜70年代にかけて活動していたカルト指導者であるチャールズ・マンソンの組み合わせは、他でもないアメリカの陰陽を象徴しています。
俺がアメリカをダメにしたんじゃない、ダメなアメリカが俺を生んだんだ。
マリリン・マンソンとアメリカ社会批判は切っても切れない関係にあり、それはバンドのアイデンティティーでもある名前にすでに根ざしているのです。
ちなみにこの名前の付け方にならって、90年代からのメンバーの多くは女性アイコンの名前と、シリアルキラーの苗字を芸名にしています。元ベーシストのトウィッギー・ラミレズの名前はモデルのトウィッギーと、「ナイト・ストーカー」の名で知られるシリアルキラー、リチャード・ラミレズより。元キーボード、マドンナ・ウェイン・ゲーシーは歌手マドンナと、「キラー・クラウン」の異名を持つジョン・ウェイン・ゲイシーより。
どうです?中ニ病心をくすぐられませんか?
(地元では"ポゴ"の愛称で親しまれていた、ジョン・ゲイシー扮するピエロ。この格好で孤児院などを慰安訪問する傍ら、自宅地下室で少年たちをレイプしては殺害、埋めていた)
私が思うにマリリンにはある種完璧主義者的なところがあり、作品に対する彼の作り込みには、いささか強迫的なものすら感じさせられます。彼が直接担当している作詞はもちろんのこと、90年代のスタジオアルバムに関しては全てに物語があり、キャラクターがあり、それらがビジュアル、歌詞、サウンド、アルバムのアートワーク全てを通じて一つの作品としてリスナーに送り届けられているのです。
例えば3枚目のアルバム「Mechanical Animals」には隠し映像が収録されており、アルバムに登場する架空の宇宙人オメガの解剖動画が見られるという作り込みようでした。またこのアルバムのプラスチックケースは半透明のブルーなのですが、このケースにアートワークをかざすとアルバムの物語になぞらえた隠しメッセージが浮かび上がる仕様になっています。そう、マリリン・マンソンのアルバムはただのCDとその入れ物ではなく、それ自体が一つの込み入った宝探しのような、遊び心と創意工夫に溢れた作品なのです。
90年代〜00年代頭にはマリリンのファンサイトが多数存在し、皆が交流掲示板で各々の考察や意見を交わしていました。そんな謎解きのような楽しみ方ができるのも、全ては一つ一つのアルバムの奥域の深さゆえ。
③キリスト大嫌いマンソン
マリリンの名を一躍世界に知らしめたのが、彼らの二枚目のアルバム、その名もズバリ「Antichrist Superstar」でした。
90年代インダストリアルロックシーンを牽引したナイン・インチ・ネイルズのフロントマン、トレント・レズナーがプロデューサーだったことなど、ヒットに繋がる要素は色々とありましたが、なんといってもこの挑発的なタイトルが話題を呼んだことは確かでしょう。実際にこのアルバム、宗教大国アメリカでは発売当時かなり論争の的となりました。各キリスト教系団体から激しい抗議が巻き起こり、全盛期のバンドのライブ会場周辺にはマリリンを批判するキリスト教信者がひしめいているのが常でした。この辺りはDVD「Guns, God, And Government」に収められているツアー周辺の様子が詳しく、マリリンを聴くものは地獄の業火に焼かれてうんたらかんたらと、モザイクで顔を隠された男性が声高に訴えている様子が見て取れます。
マリリンとキリスト教の因縁の関係は彼の子供時代にまでさかのぼります。
そこそこにいいお家のおぼっちゃんだったブライアン少年は地元のキリスト教系私立学校に入れられるのですが、当時のそこでの教育は、デビッド・ボウイやクイーンの曲を逆再生でかけて、「ほらここに悪魔のメッセージ音声が!」みたいなもの(だったらしい、自伝によると)
そんなこんなでロックミュージックに傾倒しつつあるキッズだった彼は、夜な夜なベッドの下からサタンが這い出て来て彼を地獄に引きずり込もうとするという悪夢にうなされ始めます。どうもこの辺りが原体験となって、ブライアン少年の中に現代アメリカ社会におけるキリスト教のあり方への反感が芽生えていったようです。
よくある誤解として、マリリンが批判しているのはキリスト教の教えそのものではなく、鉤括弧つきの「キリスト教」であるという点があります。90年代当時のアメリカにおいていかにキリスト教信者のバッジをつけることが社会的に「私はまともな人間です」という免罪符たりえていたか、またいかに実際の彼らの行動が教えの本質に背いているか、その辺りが彼の批判の矛先だったのです。
I never really hated the one true god, but the god of the people I hated
俺は唯一誠の神を憎んだことは一度もなかったが、人々の神は憎かった-アルバムHollywood収録、Disposable Teensより
(悪魔教会の開祖、アントン・ラヴェイと)
また、マリリンは悪魔教会のメンバーとしても知られています。
キリスト教信者のルサンチマン(強者に対し仕返しを欲して鬱結した、弱者の心)を批判したニーチェに傾倒していたマリリンにとって、神の教えに背いて天国を追放され、その後独自の道を行ったサタンは、いかにも象徴的な存在だったのでしょう。
I went to god just to see, and I was looking at me
俺は神を見に行った そこで俺が目にしたのは自分自身だった-アルバムAntichrist Superstar収録、Reflecting Godより
(学生時代の全然イケてないブライアン君。うーん、親近感)
彼は常々外部のマジョリティーに自らの正義や信念を一致させ、批判を恐れて独自の思考や感性を放棄する生き方を忌み嫌います。自らの行動・発言に対して責任を取ることはそれに対して批判を受けることと常にセットであり、排除を恐れて他者を隠れ蓑にすることは恥ずべき行為であるという思想です。
ちょっと話が逸れますが、この辺り、太宰治著「人間失格」における「世間」という言葉への批判(「世間がゆるさないのではない、あなたがゆるさないのでしょう?」)と重なる部分があります。
私が中島義道に代表される自らの言葉に責任を持つという思想に惹かれることへのルーツも、やはりマリリン抜きにしては語れないという気がします。
(ブライアン少年と、自分の息子が将来アンチクライスト・スーパースターになるとは知る由もない父)
なお、マリリンが実体としての神や悪魔を信じているという発言は私の思い出せる限り読んだ記憶がありません。これらはあくまで象徴としての話でありますが、かといって完全なる無神論者というわけでもないようで、何かしら超越的なものの存在は信じているとインタビューでは述べています。
(つづく)