ウガンダ生活

ウガンダ・ブイクウェの生活を実況中継中

「自分」という相棒(2/5)

 相反する自分

 自分を好きでない人間にとって自己像にまつわる理想と現実のギャップが及ぼす脅威は大きなものとなります。条件付きでしか自分を認められない場合、ありのままの自分の姿を見つめることは、自分の存在理由を脅かされることにも等しいからです。その結果、心の底では自覚している己の弱さや欠点は否認され、抑圧されていきます。

抑圧されたものは消えてなくなったりしません。抑圧されているが故に強迫性を帯び、また他人に投影されます。

心理学における投影とは、自己のとある衝動や資質を認めたくないとき(否認)、自分自身を守るために、他の人間にその悪い面を押し付けてしまう(帰属させる)ような心の働きを言う。

私は小学生の頃母が離婚した後、父親以外の男性と恋愛をしている彼女を見るのがとても嫌で、当時彼女を軽蔑していました。しかし振り返って考えて見ると嫌悪の理由は明白ではありません。自らが抑圧した「愛されたい」という欲求や自分の脆さを彼女に投影していたのではないかと今では考えています。

 

このように抑圧された状態が続いた結果、私は内心で攻撃性を帯び、時にそれを表明するようになりました。

けれどもここで他人に投影されているものの真の正体は自らの心の状態でもありますから、結果として私は自分の脆さや弱さをも憎む形で、自己嫌悪を深めていきました。

 

他人からの好意を受け取る

 このような状態の矢先、大きなヒントとなったのが二村ヒトシ著「なぜあなたは愛してくれない人を好きになるのか」でした。

なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか (文庫ぎんが堂)

なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか (文庫ぎんが堂)

 

 

この本に登場する最大のキーワードのひとつが自己肯定感です。

 

自己肯定感とは、自らの在り方を積極的に評価できる感情、自らの価値や存在意義を肯定できる感情などを意味する言葉であり、自尊心、自己存在感、自己効力感と同じ意味あいで用いられる。 「自己肯定感」という言葉は1994年に高垣忠一郎によって提唱された。

 

自己肯定感という概念それ自体を取り扱った書籍は山ほどありますが、この本の素晴らしいところはこの概念をナルシシズムと対比させ、恋愛という極めて身近な例に絡めて説明しているところでしょう。

自己肯定感とは「ありのままの自分」を受け入れることであり、この自己肯定感としばしば混同されがちなものとして彼はナルシシズムについて語ります。

ナルシシズムは自己陶酔であり、ある種の劣等感の裏返しでもあります。彼は恋愛におけるパートナーへの態度を「相手を支配する/されることで所有しようとする欲望・執着」(ナルシシズム)と「相手を認めること」(肯定)と定義し、前者を恋に、後者を愛に分類します。

このことはパートナーに対してのみでなく、自分自身との関係に関しても言えるでしょう。ありのままの自分を受け入れることが自己肯定であるとすれば、ありのままの自分を受け入れられないがために己を否認し、「こうあって欲しい」という自己像に執着する、これがナルシシズムです。

 

それまで私は自己改造を通じて自己嫌悪を乗り越えようとしていましたが、そこにあるのは「こうあって欲しい」という理想像への執着であり、「(欠点や弱さを含めた)ありのままの自分」の肯定ではなかったことに私は気付きました。

 

二村さんはまた、自分で自分を認めないことには、他人からの好意を受け取ることができないという点にも触れています。これにもまた大いに心当たりがありました。

 

自己改造によって己を好きになろうとする試みと平行して、私は常に周囲の人間から愛されようとしてきました。他者からの好意や賞賛の力を借りて自己嫌悪を乗り越えることができると考えていたのです。しかし大学生の頃、家族や友人や彼氏に囲まれてなお弱まらない自己否定の感情に気付いた時、この考えに陰りが生まれ始めました。

冷静に考えてみれば、それ以前から私には自分と関わりを持ち、私に関心を抱いてくれる人たちがいました。けれど自分で自分を否定していると、他人からの好意を受け取ることは難しくなります。受け取ったその瞬間は嬉しいのですが、その後に「でもこの人が好きなのは表面上演じている自分でしかない」「本当の自分を知ったら嫌いになるはずだ」といった猜疑心が芽生えるわけです。このような猜疑心が、相手の自分への愛情を試そうとしたりもします。

 

このような状態はしばしば穴の空いたコップに水を入れることに例えられます。

受け取った水はその場で穴から外へ流れ出して行きますから、承認を求める欲求は際限のないものになります。いわゆる愛情飢餓の状態です。このような場合他者からの好意や賞賛は、自己否定に終止符を打つ決定打とはなりえません。他者は水を注ぐことはできても、その穴を塞ぐことはできないからです。

 

自分を受け入れる上で、ある程度までは他者との繋がりが手がかりになることは確かであるが、根源的な自己否定は他人の手によってどうこうできるものではない。

それが私のたどり着いた結論でした。

そしてこのときに初めて、私は自分ひとりで自分と向き合う、自分ひとりで自分を請け負うということについて考え始めました。

 

(つづく)