ウガンダ生活

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「自分」という相棒(3/5)

自分を愛する

 一般に「自分を愛する、大切にする」ための考え方やメソッドはいくつか提唱されています。

私にとって参考になったのは『「生きづらさ」との格闘と、読書』の記事でも紹介したケイティ・バイロンの書籍でした。

原初が手元にはないので、覚えている限りで内容を引用します。

 

ケイティ・バイロンが取るのは、自我を他者として取り扱う方法です。ケイティは「自分」と「自分の考え」を切り離し、後者を時に己を苦しめる「エゴ」と呼びます。

そんなことを言ったって、どちらも自分の一部ではないか!という読者の反応に対し、「もしそうだとしたら、あなたが頭の中で独り言を言うとき、その言葉を耳にしているのは一体誰なのでしょう?」と彼女は問います。

 

ケイティの一連の書籍の最大のメッセージのひとつが、「現実に<べき>を押し付けるとき、苦しみは生まれる」というものです。そしてこの<べき>を生むのが私たちの考え、エゴであると彼女は説きます。

苦しみが刺激に対する反応として生じるものであるとすれば、心の中で感じる苦しみにも、刺激の発信源と受取手がいるはずです。エゴをその発信源に見立て、心を受取手に見立てるのが彼女の考え方といえるでしょう。

彼女の書籍に先立ってエーリッヒ・フロムの「愛するということ」を読んでいた私には納得のいく話でした。フロムはもともと無意識の存在を説いた精神分析学の創始者・フロイト派の学者です。同書の中で彼もまた、心理学的観点から他者も自分自身も同様に己の感情の対象になり得ることを説いています。

 

自分というもののままならさに頭を抱えてきた私にとって、このようにして自分をある種の他者として取り扱うことは、心をとても楽にしてくれる考え方でした。

 

中動態の世界

 自分の侭ならさを嫌悪していた私は、反面いつも強い人間に憧れていました。私が自分に課した「あるべき姿」の理想像は、強さと自立性と能力を兼ね備えたものでした。自らの意思によって己を律し、他者に惑わされることなく、自らの望むものを手に入れられる人間になりたいと願っていたのです。

ここにあるのは完全な自由意志という幻想です。

 

自由意志とは、自分の意志が自分の自由になるという仮説である

 

つまるところ、自由意志を持ち、それに基づいて行動したり、感じたりする「べき」自分が、現実には劣等感に苛まれ、気分の上下に激しく左右されている事実が嫌でしょうがなかったのです。

では、そんな思い通りにならない自分をどうすればありのままで受け入れられるか?

この問題のヒントとなったのが、國分功一郎著「中動態の世界」でした。

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

 

 

「中動態」とは言語学の用語であり、かつて存在した能動態でも受動態でもない動詞の態の名前です。

現在私たちはあらゆる行為を能動的なものと受動的なものの二つに分類します。「I walk(私は歩く)=能動態」「I was surprised(私は驚かされた)=受動態」といった具合に。

しかし、かつて言語の世界にはこのどちらにも属さない中動態がありました。そして驚くべきことにはこの態こそが、言語における動詞の始まりに存在した原初の態ではないかという説があるのです。

これが表すことはつまり、能動と受動とは近代社会の生み出した比較的新しい概念であるということです。現在私たちが「能動的」「受動的」と分類している行為や態度、感情のあり方はかつて、行為者と受け手の分離不可分な、同一の行為として捉えられていたのです。

 

『謝る』や『仲直りする』は、まさしく、『する』と『される』の分類では説明できないものです。 

『私が謝罪する』という文は能動態です。しかし、実際には私が能動的に謝罪するのではない。私がどれだけ自分の『能動性』を発揮しようとも、謝罪することはできません。なぜならば、自分の心の中に『私が悪かった』という気持ちが現れることが重要だからです。 

私が歩く。そのとき、私は『歩こう』という意志をもって、この歩行なる行為を自分で遂行しているように思える。しかし、事はそう単純ではない。

体には200以上の骨、100以上の関節、400の骨格筋がある。それらが繊細な連係プレーを行うことによって歩くことができる。私はそうした複雑な人体の機構を、自分で動かそうと思って動かしているわけではない。

 

自由意志が周囲からの刺激(受動)と己の意志(能動)を切り離す能力であるとすれば、このような著者の洞察は即ち自由意志の概念にも疑義を突きつけます。

さらに話を進めて、自由意志とはそもそも現代社会の要請によって生まれた概念であるということを著書は明らかにしていきます。

ある例え話を用いて、著者は自由意志が絶対的に存在するものではなく、社会にとって都合よく用いられていることを示します。

 

授業中、居眠りをしている学生がいました。教師が起こして叱ったところ、彼はその理由を述べます。

①「家計が苦しくて、弟たちの学費を稼ぐために毎朝早起きをして新聞配達のバイトをしているんです。寝不足で、眠ってしまいました」

②「昨晩夜遅くまでゲームをしていたんです。寝不足で、眠ってしまいました」

さて、この場合生徒に責任があると思われるのはどちらのケースでしょうか?

おそらく多くのひとが①の学生に対してに同情的な回答をする一方、②に関しては学生自身の責任を問うでしょう。

 

私たちは「事物の是非・善悪を弁別し、かつそれに従って行動する能力」を所有する行為者を「責任能力がある」といいます。逆に言えば、周囲によって止むを得ず強制された本人の意思にそぐわぬ行為は、責任を問われるべきではないと考えられます。

しかしこの例え話のケースで、私たちはなぜ前者の少年が「己の判断で勉学よりもアルバイトを優先し、能動的に居眠りすることを選んだ」と思わないのでしょうか?あるいは後者の少年に対して「彼はゲーム依存症であり、昨晩時点で己の自由意志でゲームを止めることは不可能だった」と予想しないのでしょうか?

このような例え話を基にして著者はこう主張します。私たちは自由意志を持つ行為者に対して責任を問うのではなく、「この人物は責任を問われるべきだ」と思ったときに行為者の自由意志を想定するのだと。

 

責任を負うためには人は能動的でなければならない。人は能動的であったから責任を負わされるというよりも、責任あるものと見なしてよいと判断されたときに、能動的であったと解釈されるということである。意志を有していたから責任を負わされるのではない。責任を負わせてよいと判断された瞬間に、意志の概念が突如出現する。

  『夜更かしのせいで授業中に居眠りをしているのだから、居眠りの責任を負わせてもよい』と判断された瞬間に、その人物は、夜更かしを自らの意志で能動的にしたことにされる。

 能動と受動の区別は、責任を問うために社会がある必要とするものだった。だが、社会的必要性はこの区別を単に想定し、要請しているのであって、それを効果として発生させているのではない。

 

著者は運命論者、決定論者ではないものの、純粋な自由意志を明らかに否定しています。

もし彼のいうとおり自由意志が「責任を問う」という社会的要請のために生まれたものだとしたら、私の思い描いていたような「強者」のイメージはまさに絵に描いた餅そのものです。

絶対的「強さ」への憧れと、その裏返しである自らの弱さへの嫌悪を和らげる上で、このような考え方は私にとって非常に役立ちました。

 

(つづく)

dasboott.hatenablog.com