ウガンダ生活

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「自分」という相棒(5/5)

ORPHAN (孤児)

こういうことについて考えたり、取り組んだりしていると「何やってるんだか、結局ただの気休めじゃん」みたいな冷めた考えが頭に浮かんでくることも、実はしばしばあります。

自分で自分をどう取り扱おうとも、それは結局愛してくれる他人がいないことの埋め合わせでしかない、とか。生まれてくる家庭が違えばそもそもこんな七面倒くさいことを考える必要もなかったのに、とかとか。

 

けれど同時に、この肉体と精神は私が生きる上でこの世界に存在するために利用できる唯一の媒体であります。他の何とも代えがききません。ここまで散々己の他者化について話してきましたが、これこそが「自分」と他者との決定的な違いともいえるでしょう。

そしてこの「自分」との付き合いは、人間が自我を有する以上、物心ついてから死ぬまで続いていくのです。

 

記事の中でも書いたとおり、己を忌み嫌う限り、人は誰に囲まれていようとも、どのような能力や財産を有していようとも、孤独と虚無の感情から逃れることはできません。

老いと共に能力値の落ちていくのが人間である以上、己のスキルや知識に自分の根源的な価値を求めることには限界があります。

一方他者からの賞賛や好意によって自己嫌悪から目をそらすことができたとしても、それらは一時的なものにしかなりえません。また、もしそのような綱渡り状態を維持できたとしても、彼ら、あるいは私のどちらかが先に死ぬ日がいつか来ます。(たとえ死の床に誰かがいたとしても、彼らが私と共に死ぬわけではありません。私たちは”ひとりで”死ぬことから逃れられません)

外面的な価値の後付けや、他者からの承認ではなく、自分という存在そのものをただ肯定し受け止めることができたなら、このようないつ来るかわからない状況においてもいくらか世界の見え方が変わるのではないかと思うのは、いささかの楽観でしょうか。

 

最後に、このようなことについて考えている時、必ず私の頭に思い浮かぶ一冊の絵本を紹介したいと思います。MAYA MAXの「ORPHAN(孤児)」という本です。

ORPHAN

ORPHAN

 

 

この本の主人公は、墨絵で描かれた猫のような奇妙な生き物です。名前はありません。

彼にはかつて仲間がいました。恋人がいて、家族がいました。けれどもいつの間にか彼らはいなくなってしまい、一人きりの世界に主人公は取り残されて、子供のように大粒の涙を流して泣きじゃくります。

「Why?(なぜ?)」

命に限りある個体に生まれてくる限り、私たちは孤独や死を避けられません。このような理不尽に満ち溢れた人生への怒り、戸惑い、恐怖を、ここまで端的に描写することができるだろうかというような、息を呑むページです。(古本屋でここを読んだ時、思わず私も号泣してしまいました。またも不審者)

「なぜ」というこの痛々しい質問が再三繰り返されたあと、主人公は安らかな表情に転じて死を覚悟したのち、やがて最後のページで自ずと立ち上がります。そしてひとりきりで自分に問いかけるのです。

「Is there anything else I can do?(僕にできることって、まだあるのかな?)」

これで絵本はおしまいです。

 

彼が救われたのかどうか読者に知る術はありません。

けれどかつての仲間を失ってなお、このように自分に問いかけ、働きかける主人公の最後の姿に、私は「自分」というものと付き合い続けることこそ「生きること」「存在すること」であるというメッセージを見ます。そしてこれ以上に確かな道の進みかたを今のところ私は知りません。

泣いても笑っても、この長いようで短い、短いようで長い旅路に最後の最後までついてきてくれる相棒は、やはり「自分」しか存在しないのです。

ちなみに「孤児」というタイトルは、ひとりで死ぬことが運命付けられている人間の孤独を象徴しているのではないかと、私は解釈しています。

 

主人公「ORPHAN」のたどった旅路を、私たち一人一人もまた辿るのだとすれば、この自分という相棒との付き合いかたを見つめていくことで、最後のページの問いの向こうに広がる何かが見えるのかもしれないと思う今日この頃です。

 

(おわり)