ウガンダ生活

ウガンダ・ブイクウェの生活を実況中継中

「自分」という相棒(5/5)

ORPHAN (孤児)

こういうことについて考えたり、取り組んだりしていると「何やってるんだか、結局ただの気休めじゃん」みたいな冷めた考えが頭に浮かんでくることも、実はしばしばあります。

自分で自分をどう取り扱おうとも、それは結局愛してくれる他人がいないことの埋め合わせでしかない、とか。生まれてくる家庭が違えばそもそもこんな七面倒くさいことを考える必要もなかったのに、とかとか。

 

けれど同時に、この肉体と精神は私が生きる上でこの世界に存在するために利用できる唯一の媒体であります。他の何とも代えがききません。ここまで散々己の他者化について話してきましたが、これこそが「自分」と他者との決定的な違いともいえるでしょう。

そしてこの「自分」との付き合いは、人間が自我を有する以上、物心ついてから死ぬまで続いていくのです。

 

記事の中でも書いたとおり、己を忌み嫌う限り、人は誰に囲まれていようとも、どのような能力や財産を有していようとも、孤独と虚無の感情から逃れることはできません。

老いと共に能力値の落ちていくのが人間である以上、己のスキルや知識に自分の根源的な価値を求めることには限界があります。

一方他者からの賞賛や好意によって自己嫌悪から目をそらすことができたとしても、それらは一時的なものにしかなりえません。また、もしそのような綱渡り状態を維持できたとしても、彼ら、あるいは私のどちらかが先に死ぬ日がいつか来ます。(たとえ死の床に誰かがいたとしても、彼らが私と共に死ぬわけではありません。私たちは”ひとりで”死ぬことから逃れられません)

外面的な価値の後付けや、他者からの承認ではなく、自分という存在そのものをただ肯定し受け止めることができたなら、このようないつ来るかわからない状況においてもいくらか世界の見え方が変わるのではないかと思うのは、いささかの楽観でしょうか。

 

最後に、このようなことについて考えている時、必ず私の頭に思い浮かぶ一冊の絵本を紹介したいと思います。MAYA MAXの「ORPHAN(孤児)」という本です。

ORPHAN

ORPHAN

 

 

この本の主人公は、墨絵で描かれた猫のような奇妙な生き物です。名前はありません。

彼にはかつて仲間がいました。恋人がいて、家族がいました。けれどもいつの間にか彼らはいなくなってしまい、一人きりの世界に主人公は取り残されて、子供のように大粒の涙を流して泣きじゃくります。

「Why?(なぜ?)」

命に限りある個体に生まれてくる限り、私たちは孤独や死を避けられません。このような理不尽に満ち溢れた人生への怒り、戸惑い、恐怖を、ここまで端的に描写することができるだろうかというような、息を呑むページです。(古本屋でここを読んだ時、思わず私も号泣してしまいました。またも不審者)

「なぜ」というこの痛々しい質問が再三繰り返されたあと、主人公は安らかな表情に転じて死を覚悟したのち、やがて最後のページで自ずと立ち上がります。そしてひとりきりで自分に問いかけるのです。

「Is there anything else I can do?(僕にできることって、まだあるのかな?)」

これで絵本はおしまいです。

 

彼が救われたのかどうか読者に知る術はありません。

けれどかつての仲間を失ってなお、このように自分に問いかけ、働きかける主人公の最後の姿に、私は「自分」というものと付き合い続けることこそ「生きること」「存在すること」であるというメッセージを見ます。そしてこれ以上に確かな道の進みかたを今のところ私は知りません。

泣いても笑っても、この長いようで短い、短いようで長い旅路に最後の最後までついてきてくれる相棒は、やはり「自分」しか存在しないのです。

ちなみに「孤児」というタイトルは、ひとりで死ぬことが運命付けられている人間の孤独を象徴しているのではないかと、私は解釈しています。

 

主人公「ORPHAN」のたどった旅路を、私たち一人一人もまた辿るのだとすれば、この自分という相棒との付き合いかたを見つめていくことで、最後のページの問いの向こうに広がる何かが見えるのかもしれないと思う今日この頃です。

 

(おわり)

「自分」という相棒(4/5)

 自分という得体の知れないもの

 「自分を愛する」ことについてこうして考えつづけていった結果、そもそも自分とはなんなのか、それはどれほど自明な概念であるのか、私はだんだんと自信がなくなってきました。

自分という存在の定義として「他者と同様己の感情の対象になりうること」かつ「自由意志によってのみ操作されるものではないこと」を思うと、どうもそれは自分が子供の頃から思い描いていたような、まさにそれ自身が「私そのもの」であるといえるような、明確な全体性を持ったものではないように思えてくるからです。

 

そんなことを考えていた矢先、中島義道さんの哲学塾で偶然「自分」というものについて彼が話すのを聞く機会がありました。

彼は「自分」という概念を、時間に沿った一貫性として説明します。この概念を可能にするのは、昨日の私と今日の私、そして明日の私が同一の存在であるという直感に根ざした自己像です。

しかし、人間の細胞の大半は時間とともに新しい細胞にとって代わられていきます。肉体として個人の存在の一貫性はどこまで自明なものなのでしょうか。また肉体が「自分」の容れ物に過ぎないと仮定して、その場合そこに宿る精神はどこに存在しているのでしょうか。一口に「性格」と呼んでも、そこでは生得的要素と後天的要素が不可分に混じり合い、一体を成しているように思えます。

 

また「私は私である」という自認は意識の続く限り存続するものであって、眠っている時、あるいは何かに夢中になっている時(「無我夢中」とは、文字どおり「我」が「無」になる状態を指します)にはそこに途切れが生じることを彼は説明しました。

途切れを経て意識を取り戻した時、途切れの以前と以降の自分が同一であることを保証するのは自らの保持している記憶です。では、記憶を失った人間、あるいは来る未来に可能になった科学技術によって記憶を移植された人間にとって、「自分」というアイデンテティーはどのように保証されるのでしょうか。

 

私にとって哲学的思考の最大の魅力の一つは、自分が「知っている」と思い込んでいた概念が、突き詰めるにつれてばらばらに解けて砕けて、まるで理解不能な未知のものとして立ち現れてくる点にあります。

中島先生の話を聞いて以降、「自分」というこの身近な概念もまた、このように不可解なものの例外ではないことが少しずつ明らかになっていきました。

 

また、これは完全に個人の感覚としての話なのですが、ある程度昔以上の自分のことを、私はほとんど「他人」のように感じて眺めている節があります。

記憶としてはその頃の自分が行なっていたこと、考えていたことを覚えてはいるのですが、私は実際にそのときの感情を再現したり、そのときと同じように振る舞うことはできません。

これは丁度現在において他人の気持ちを推測したり、言葉で当人からその人の考えを伝えてもらうことはできても、その人の立場になってその感情に浸ることはできないことと類似しています。

また、過去においては現在の自分と全く異なった考えを持っていた頃の自分も存在します。現在において共感できる他人と、過去において共感できない自分とを比較したとき、私にとって心理的な距離が近いのは前者です。

このように、時間を遡るほど私にとって自己は他者に近い存在となっていくのです。

インナーチャイルドのように、幼い頃の自分を心理的にイメージして語りかけることで心的外傷の治癒を試みるメソッドなどは、このような過去の己の他者化を利用したものといえるでしょう。

 

自分という友人

三浦望さんという心理カウンセラーがいます。ツイッターで彼女のアカウントを知った私は、彼女のこんな言葉にある気づきを得ました。

 

「大好きな友人のように自分を大切にしてください。健康的で美味しいものを食べさせて、気持ちよく過ごせるよう部屋を整え、お風呂や好きな音楽でリラックスさせてあげてください。気持ちを受け止め、話を聞いてあげてください。私たちが”本当にやらなければいけないこと”は、こういうことなのです」

 

自分の気持ちが落ち込んでいるときや無価値観に苛まれているとき、これまで私は自分を責める傾向にありました。またこの感情が転じて、「周囲から責められている」「嫌われている」というふうに、身の回りの人々にその気持ちを投影してもいました。

このような心理状態で生きていると、世界はとても安全な場所には見えません。結果、排外的になり、他人への攻撃性を帯びるようになります。

また、このような心の分断はその人が見る社会にも投影されますから、私にとって世の中は常に恐ろしい場所としてうつっていました。

 

では、もしここで気持ちの落ち込んでいるのが「自分」ではなく、親しい友人であれば私はどうするのか。おそらく相手の言葉に耳を傾け、辛い気持ちを相手が話すがままに聞き、吐き出すよう促そうとするでしょう。(そのような理想的な態度が実際に取れているかどうかは置いておいて笑)

とてもシンプルなことなのですが、これと同じことを、気持ちが落ち込んでいる自分を親しい友人に見立てて、最近は行うようにしています。

 

特に「美味しいものを食べる」ことは、効果があるように思います。

実は先日、とある悲しいことがあってタクシーに乗りながら泣きじゃくっていたのですが(完全な不審者)、このときコンビニで買ったドーナツを食べていて、急に自分が小さな子供にお菓子を食べさせているような感覚になったことがありました。

「食べる」ことは「生きる」ことと直結した行為であり、また「食べさせる」ことは最も端的な愛情表現の一つでもあります。インナーチャイルドメソッドで幼い頃の自分を「抱きしめる」ことをイメージするように、他者としての自分に何かを「食べさせる」ことが、もしかしてある種イメージ療法のような効果を持ったのかもしれません。

どれほど一般的な感覚なのかはわかりませんが、もし「自分を大切にする」ことを難しく感じている人がいたら、個人的にはオススメの方法です。

フロイトのセオリーに詳しい人なら成長過程の一つである口唇期における愛情欠如の影響云々などと、解説をしてくれそうな気がしないでもないですが・・・(ちなみに、絶え間ない口唇の使用を必要とする喫煙は、愛情飢餓の表れであるなどという指摘もあるにはある)

 

 

(つづく)

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「自分」という相棒(3/5)

自分を愛する

 一般に「自分を愛する、大切にする」ための考え方やメソッドはいくつか提唱されています。

私にとって参考になったのは『「生きづらさ」との格闘と、読書』の記事でも紹介したケイティ・バイロンの書籍でした。

原初が手元にはないので、覚えている限りで内容を引用します。

 

ケイティ・バイロンが取るのは、自我を他者として取り扱う方法です。ケイティは「自分」と「自分の考え」を切り離し、後者を時に己を苦しめる「エゴ」と呼びます。

そんなことを言ったって、どちらも自分の一部ではないか!という読者の反応に対し、「もしそうだとしたら、あなたが頭の中で独り言を言うとき、その言葉を耳にしているのは一体誰なのでしょう?」と彼女は問います。

 

ケイティの一連の書籍の最大のメッセージのひとつが、「現実に<べき>を押し付けるとき、苦しみは生まれる」というものです。そしてこの<べき>を生むのが私たちの考え、エゴであると彼女は説きます。

苦しみが刺激に対する反応として生じるものであるとすれば、心の中で感じる苦しみにも、刺激の発信源と受取手がいるはずです。エゴをその発信源に見立て、心を受取手に見立てるのが彼女の考え方といえるでしょう。

彼女の書籍に先立ってエーリッヒ・フロムの「愛するということ」を読んでいた私には納得のいく話でした。フロムはもともと無意識の存在を説いた精神分析学の創始者・フロイト派の学者です。同書の中で彼もまた、心理学的観点から他者も自分自身も同様に己の感情の対象になり得ることを説いています。

 

自分というもののままならさに頭を抱えてきた私にとって、このようにして自分をある種の他者として取り扱うことは、心をとても楽にしてくれる考え方でした。

 

中動態の世界

 自分の侭ならさを嫌悪していた私は、反面いつも強い人間に憧れていました。私が自分に課した「あるべき姿」の理想像は、強さと自立性と能力を兼ね備えたものでした。自らの意思によって己を律し、他者に惑わされることなく、自らの望むものを手に入れられる人間になりたいと願っていたのです。

ここにあるのは完全な自由意志という幻想です。

 

自由意志とは、自分の意志が自分の自由になるという仮説である

 

つまるところ、自由意志を持ち、それに基づいて行動したり、感じたりする「べき」自分が、現実には劣等感に苛まれ、気分の上下に激しく左右されている事実が嫌でしょうがなかったのです。

では、そんな思い通りにならない自分をどうすればありのままで受け入れられるか?

この問題のヒントとなったのが、國分功一郎著「中動態の世界」でした。

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

 

 

「中動態」とは言語学の用語であり、かつて存在した能動態でも受動態でもない動詞の態の名前です。

現在私たちはあらゆる行為を能動的なものと受動的なものの二つに分類します。「I walk(私は歩く)=能動態」「I was surprised(私は驚かされた)=受動態」といった具合に。

しかし、かつて言語の世界にはこのどちらにも属さない中動態がありました。そして驚くべきことにはこの態こそが、言語における動詞の始まりに存在した原初の態ではないかという説があるのです。

これが表すことはつまり、能動と受動とは近代社会の生み出した比較的新しい概念であるということです。現在私たちが「能動的」「受動的」と分類している行為や態度、感情のあり方はかつて、行為者と受け手の分離不可分な、同一の行為として捉えられていたのです。

 

『謝る』や『仲直りする』は、まさしく、『する』と『される』の分類では説明できないものです。 

『私が謝罪する』という文は能動態です。しかし、実際には私が能動的に謝罪するのではない。私がどれだけ自分の『能動性』を発揮しようとも、謝罪することはできません。なぜならば、自分の心の中に『私が悪かった』という気持ちが現れることが重要だからです。 

私が歩く。そのとき、私は『歩こう』という意志をもって、この歩行なる行為を自分で遂行しているように思える。しかし、事はそう単純ではない。

体には200以上の骨、100以上の関節、400の骨格筋がある。それらが繊細な連係プレーを行うことによって歩くことができる。私はそうした複雑な人体の機構を、自分で動かそうと思って動かしているわけではない。

 

自由意志が周囲からの刺激(受動)と己の意志(能動)を切り離す能力であるとすれば、このような著者の洞察は即ち自由意志の概念にも疑義を突きつけます。

さらに話を進めて、自由意志とはそもそも現代社会の要請によって生まれた概念であるということを著書は明らかにしていきます。

ある例え話を用いて、著者は自由意志が絶対的に存在するものではなく、社会にとって都合よく用いられていることを示します。

 

授業中、居眠りをしている学生がいました。教師が起こして叱ったところ、彼はその理由を述べます。

①「家計が苦しくて、弟たちの学費を稼ぐために毎朝早起きをして新聞配達のバイトをしているんです。寝不足で、眠ってしまいました」

②「昨晩夜遅くまでゲームをしていたんです。寝不足で、眠ってしまいました」

さて、この場合生徒に責任があると思われるのはどちらのケースでしょうか?

おそらく多くのひとが①の学生に対してに同情的な回答をする一方、②に関しては学生自身の責任を問うでしょう。

 

私たちは「事物の是非・善悪を弁別し、かつそれに従って行動する能力」を所有する行為者を「責任能力がある」といいます。逆に言えば、周囲によって止むを得ず強制された本人の意思にそぐわぬ行為は、責任を問われるべきではないと考えられます。

しかしこの例え話のケースで、私たちはなぜ前者の少年が「己の判断で勉学よりもアルバイトを優先し、能動的に居眠りすることを選んだ」と思わないのでしょうか?あるいは後者の少年に対して「彼はゲーム依存症であり、昨晩時点で己の自由意志でゲームを止めることは不可能だった」と予想しないのでしょうか?

このような例え話を基にして著者はこう主張します。私たちは自由意志を持つ行為者に対して責任を問うのではなく、「この人物は責任を問われるべきだ」と思ったときに行為者の自由意志を想定するのだと。

 

責任を負うためには人は能動的でなければならない。人は能動的であったから責任を負わされるというよりも、責任あるものと見なしてよいと判断されたときに、能動的であったと解釈されるということである。意志を有していたから責任を負わされるのではない。責任を負わせてよいと判断された瞬間に、意志の概念が突如出現する。

  『夜更かしのせいで授業中に居眠りをしているのだから、居眠りの責任を負わせてもよい』と判断された瞬間に、その人物は、夜更かしを自らの意志で能動的にしたことにされる。

 能動と受動の区別は、責任を問うために社会がある必要とするものだった。だが、社会的必要性はこの区別を単に想定し、要請しているのであって、それを効果として発生させているのではない。

 

著者は運命論者、決定論者ではないものの、純粋な自由意志を明らかに否定しています。

もし彼のいうとおり自由意志が「責任を問う」という社会的要請のために生まれたものだとしたら、私の思い描いていたような「強者」のイメージはまさに絵に描いた餅そのものです。

絶対的「強さ」への憧れと、その裏返しである自らの弱さへの嫌悪を和らげる上で、このような考え方は私にとって非常に役立ちました。

 

(つづく)

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「自分」という相棒(2/5)

 相反する自分

 自分を好きでない人間にとって自己像にまつわる理想と現実のギャップが及ぼす脅威は大きなものとなります。条件付きでしか自分を認められない場合、ありのままの自分の姿を見つめることは、自分の存在理由を脅かされることにも等しいからです。その結果、心の底では自覚している己の弱さや欠点は否認され、抑圧されていきます。

抑圧されたものは消えてなくなったりしません。抑圧されているが故に強迫性を帯び、また他人に投影されます。

心理学における投影とは、自己のとある衝動や資質を認めたくないとき(否認)、自分自身を守るために、他の人間にその悪い面を押し付けてしまう(帰属させる)ような心の働きを言う。

私は小学生の頃母が離婚した後、父親以外の男性と恋愛をしている彼女を見るのがとても嫌で、当時彼女を軽蔑していました。しかし振り返って考えて見ると嫌悪の理由は明白ではありません。自らが抑圧した「愛されたい」という欲求や自分の脆さを彼女に投影していたのではないかと今では考えています。

 

このように抑圧された状態が続いた結果、私は内心で攻撃性を帯び、時にそれを表明するようになりました。

けれどもここで他人に投影されているものの真の正体は自らの心の状態でもありますから、結果として私は自分の脆さや弱さをも憎む形で、自己嫌悪を深めていきました。

 

他人からの好意を受け取る

 このような状態の矢先、大きなヒントとなったのが二村ヒトシ著「なぜあなたは愛してくれない人を好きになるのか」でした。

なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか (文庫ぎんが堂)

なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか (文庫ぎんが堂)

 

 

この本に登場する最大のキーワードのひとつが自己肯定感です。

 

自己肯定感とは、自らの在り方を積極的に評価できる感情、自らの価値や存在意義を肯定できる感情などを意味する言葉であり、自尊心、自己存在感、自己効力感と同じ意味あいで用いられる。 「自己肯定感」という言葉は1994年に高垣忠一郎によって提唱された。

 

自己肯定感という概念それ自体を取り扱った書籍は山ほどありますが、この本の素晴らしいところはこの概念をナルシシズムと対比させ、恋愛という極めて身近な例に絡めて説明しているところでしょう。

自己肯定感とは「ありのままの自分」を受け入れることであり、この自己肯定感としばしば混同されがちなものとして彼はナルシシズムについて語ります。

ナルシシズムは自己陶酔であり、ある種の劣等感の裏返しでもあります。彼は恋愛におけるパートナーへの態度を「相手を支配する/されることで所有しようとする欲望・執着」(ナルシシズム)と「相手を認めること」(肯定)と定義し、前者を恋に、後者を愛に分類します。

このことはパートナーに対してのみでなく、自分自身との関係に関しても言えるでしょう。ありのままの自分を受け入れることが自己肯定であるとすれば、ありのままの自分を受け入れられないがために己を否認し、「こうあって欲しい」という自己像に執着する、これがナルシシズムです。

 

それまで私は自己改造を通じて自己嫌悪を乗り越えようとしていましたが、そこにあるのは「こうあって欲しい」という理想像への執着であり、「(欠点や弱さを含めた)ありのままの自分」の肯定ではなかったことに私は気付きました。

 

二村さんはまた、自分で自分を認めないことには、他人からの好意を受け取ることができないという点にも触れています。これにもまた大いに心当たりがありました。

 

自己改造によって己を好きになろうとする試みと平行して、私は常に周囲の人間から愛されようとしてきました。他者からの好意や賞賛の力を借りて自己嫌悪を乗り越えることができると考えていたのです。しかし大学生の頃、家族や友人や彼氏に囲まれてなお弱まらない自己否定の感情に気付いた時、この考えに陰りが生まれ始めました。

冷静に考えてみれば、それ以前から私には自分と関わりを持ち、私に関心を抱いてくれる人たちがいました。けれど自分で自分を否定していると、他人からの好意を受け取ることは難しくなります。受け取ったその瞬間は嬉しいのですが、その後に「でもこの人が好きなのは表面上演じている自分でしかない」「本当の自分を知ったら嫌いになるはずだ」といった猜疑心が芽生えるわけです。このような猜疑心が、相手の自分への愛情を試そうとしたりもします。

 

このような状態はしばしば穴の空いたコップに水を入れることに例えられます。

受け取った水はその場で穴から外へ流れ出して行きますから、承認を求める欲求は際限のないものになります。いわゆる愛情飢餓の状態です。このような場合他者からの好意や賞賛は、自己否定に終止符を打つ決定打とはなりえません。他者は水を注ぐことはできても、その穴を塞ぐことはできないからです。

 

自分を受け入れる上で、ある程度までは他者との繋がりが手がかりになることは確かであるが、根源的な自己否定は他人の手によってどうこうできるものではない。

それが私のたどり着いた結論でした。

そしてこのときに初めて、私は自分ひとりで自分と向き合う、自分ひとりで自分を請け負うということについて考え始めました。

 

(つづく)

 

「自分」という相棒(1/5)

あなたは自分のことが好きですか?

この質問に手放しで「はい」と答える人を、私は心から羨ましく思います。そして「いいえ」「わからない」と答える人に共感します。

 

私は自分のことがあまり好きではありません。また、好きではないからこそ「自分を好きになる」ということに関して長い間考えても来ました。

自分を好きになるとはどういうことなのでしょう。人はどのような精神状態において、あるいはどのような行為において自分を好きになったり、嫌いになったりするのでしょう。そして、「自分」とはそもそも一体どのような存在なのでしょう。

 

というわけで今回は私の人生の大きなテーマである「自分を愛する」ということについて記事を書いてみました。

 

尚、話の性質上、今回の記事は『「生きづらさ」との格闘と、読書』と重複する内容を含みます。

 

自己改造の試み

 おそらく多くの人と同じように、自分を好きになるために私は長年自分をつくりかえようとしてきました。

「自分の◯◯なところが嫌いだ」という気持ちに対して、その◯◯を反転させる(運動ができないのであれば運動ができるようになる、モテないのであればモテるようになる、コミュニケーション下手なのであればコミュニケーション上手になる、etc)ことで自分を好きになることができると信じていました。

このような考え方に基づいて私は卒のないコミュニケーションを心がけ、周囲にとって理解ある友人・彼女、そして知性的な自立した個人になることを目指してきたわけです。

 

結果から言えばこれらはどれもある種の経験であり、そういった意味では私の人生を豊かにしてくれました。けれどこの記事の主題である「自分を愛する」ということにおいて、上記のような考えは私にとってより自己嫌悪を強めるものになりうることに、後になって私は気付きました。

 

条件付きの肯定

人は様々な形で他人を受け入れたり、あるいは拒否したりしますが、そういった関係のあり方の一つとして条件付きの肯定というものがあります。これはつまり「あなたが◯◯だったら、あなたを受け入れるよ」というメッセージです。◯◯の中にはまたも、勉強ができる、友達をつくれる、親の言うことを聞くなど、あらゆる言葉が入り得ます。

 

条件付きの肯定はしばしば動機付けに用いられます。

私たちはルールを守る人を肯定することで、ルールを破る人間をコミュニティから排除します。排除への恐怖が秩序維持の動機となる仕組みです。

他にも己の能力の育成を促す上でもこのような動機付けは有効です。例えば「英語が喋れれば、自分はもっといい仕事に就ける」と考えて語学の勉強に励む人は、これによって新しいチャンスを手に入れることができるでしょう。

けれどもこの方法は子育てや、親密な人間関係を築く上では好ましくありません。「あなたが◯◯だったら、あなたを受け入れるよ」というのは、裏返せば「◯◯でないあなたは受け入れられない」ということでもあります。

そしてこれこそが長年、私が自分を好きになるために自分に対してやろうとしていたことだったのです。

 

人間は意思に基づいて行動する生物ですが、同時にその意思は行動によっても作られていきます。

例えば不眠症の人が睡眠薬を飲むとき、睡眠薬を飲むという行為そのものが「私は薬なしでは眠れない人間である」という自己認識を強め、かえって睡眠薬への依存度を高めるという報告があります。

自分を嫌いな状態の人間が、自分を好きになるために外面的な成長を目指すことは、「ありのままの私では受け入れられない」という自分の信念を強化することになり得ます。一見人生に情熱的な人がしばしば神経症的様相を呈するのは、このような不安が動機に隠されている場合です。

 

「自分が◯◯であれば、自分のことを好きになれる」という信念に基づく努力は、このようにしていつのまにか私の気づかぬうちに「◯◯でない自分は好きになれない」という信念を強化していきました。

 

(つづく)

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ウガンダ観光4

カプチョルワ編2

カプチョルワでの2日目は、コーヒーツアーに参加しました。

ウガンダはコーヒーの産出国として有名で、その規模は国全体の輸出額全体の27%を占め、世界9位の生産国として名を馳せています。私の前の職場の輸入食料品店でもウガンダ産のコーヒーを販売していました。国内におけるコーヒー生産の歴史は100年も昔まで遡り、現在ウガンダのコーヒー産業は50万の小規模農家によって支えられています。

今回はそんな小規模農家の一つを訪問し、そこでコーヒー作りの過程を体験させてもらいました。

 

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これがコーヒーの木!カプチョルワだけでなく、私の任地のニェンガにも沢山植えられています。熟れて赤くなっているのがわかります。

 

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外皮を向くと、中から滑りけのあるコーヒーの実が出てきます。これを洗って、乾燥させます。

 

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乾燥後の豆がこれ。これを、木槌に入れて、


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すりつぶすこと十数分・・・薄皮と中の固い実が分離されます。

そうしたら、実だけを鍋にいれて、火にかけてかき回します。


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しばらくすると実が色づいて、コーヒーのいい香りが!


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じゃじゃーん。コーヒー豆のできあがり。これを再び木臼ですりつぶして、粉末状にします。


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あとは熱湯に入れて混ぜるだけ。


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コーヒーのできあがり!

正直コーヒーに詳しくないので味の細かい違いはよくわからなかったのですが、自分で作ったという感慨もあって美味しく感じました笑

帰りにお土産に粉末状のコーヒーを一袋買って帰りました。

貴重な体験ができてよかった。

 

おまけ

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帰りのバスの様子。走行中もドアが開きっぱなしだった。

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カプチョルワのロッジのわんこ。木から落ちてきた花がお腹についてて可愛い。

 

以上ウガンダ国内観光紀でした。

たっぷり一週間ちょっと、新しい場所やアクティビティーを満喫できて楽しかった!

また友達が遊びに来たときには国立公園やエルゴン山にも行ってみたいですね。

任国外旅行も楽しみだけれど、ウガンダ国内をじっくり散策するのも味わいがあっていいな、と思った旅でした。

 

ちょっと余談ですが、この旅行の途中に同行の友人がひったくりにあうというトラブルが発生しました。

幸い大事には至りませんでしたが、やっぱり油断は禁物・・・と思うなど。

何事も注意するに越したことはありませんね。

 

最終日、カンパラのホテルに戻ってテレビをつけたらたまたま「ブラック・パンサー」がやっていました。

映画が好きなこと、こうしてアフリカに来ていることもあって、旅の最後にたまたまこの映画が見られたことがちょっと嬉しかった。

日本の映画館で見たときは特になんとも思わなかった細かい箇所に、アフリカ文化へのリスペクト要素を感じ取ったりして・・・友人と久しぶりに映画の話で盛り上がれたのも、楽しかったです。

また新しい場所に行ったら記事に書きたいと思います。

ウガンダ観光3

カプチョルワ編

カプチョルワはウガンダ最東部、ケニヤとの国境沿いに位置するエルゴン山北麓の県です。カンパラ、ジンジャの後はこちらのシピ滝を見て来ました!

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カンパラから直通バスに乗ること、6時間ほど。

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朝ごはんがわりの焼き鳥(?)

 

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徐々に景色が変わり始め・・・

 

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ついに到着!どひゃー、絶景!

さっそくガイドに案内してもらって、シピの三つの滝を見ました。

 

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一つ目はまず、滝のすぐそばのロッジから!

本来なら雨期にあたる時期なのですが今年は雨が少ないらしく、滝の水量は少なめだとのこと。

 

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ロッジから車で10分ほど山を登ったところに、二つ目の滝がありました。

一緒にうつっているのが先輩隊員に紹介してもらったガイドのサイラス。過去の日本人ボランティアとも交流があり、とても親切にしてくれました。

滝の麓にはなんと虹が!


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三つ目の滝は内側から近づいて見ることができました。滝壺の中には小さなくぼみがあり、他にも洞窟がいくつかあるのだとか。今回はやらなかったけど、洞窟ツアーにも次回是非参加してみたい!

 

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洞窟で取れる鉱物。ガラスなどの原料になるのだそう

 

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現地の人が飼っているというカメレオンを腕に乗せてくれた。小さな爪が肌に刺さって少し痛いけど、目がクリクリして可愛い〜(アップ撮り損ねた


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滝と滝の間を歩いて移動する間は、緑豊かな田舎ウガンダの景色をふんだんに楽しむことができました。地元の子供達が気持ちよさそうに川で水浴びをしていたのが印象的だった。

 

三つ目の滝を見た後は、一つ目の滝のすぐそばまで戻って来ました。

ここからが本日の大目玉アブセイリング。

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ちょっと分かりづらいですが、1枚目の写真の滝の水が落ちているすぐ右の場所にいます。

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下までは100mの高さ。この崖の淵に金具を引っ掛けて、ロープを巻きつけて、ベルトを装着して・・・

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行って来まーす!


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ここからはロープ一本で吊るされたまま、するするとガイドのペースで地上まで降ろされていきました。

 

ちなみに私の携帯を持って先に降りて行ったガイドの撮った写真がこれ。

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こわい!!

 

実は実際にここに来るまでアブセイリングって何をするのかよく分かってなくて、先輩隊員にオススメされたから「なんか面白そう〜」ぐらいのノリで予約していた私。到着して、同行した友人と滝の上から下までの高さをみるやいなや、一気に青ざめました笑 高所恐怖症ではないけど、こんなスリリングなアクティビティーはこれまでの人生で一度もしたことがなかった・・・。

でもすごく楽しかったです!割と最初から下を見ながら降りていたのですが、恐怖でアドレナリンが出まくったのか妙な興奮状態に陥り、途中からは視界に入る周りの景色の美しさにすっかり見惚れていました。開けた山の向こうに広がるウガンダの大地はどこまでも平たく、霞の向こうに薄っすらと地平線を確認することができました。なんだかとても素朴に、「私は今地球という星の上にいるんだなあ」という感じがして感動しました。

 

アブセイリングの後はその日の宿へ移動。

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山の上に位置するホテルHome Of Friendsからは、美しい夕日を眺めることができました。

感動したのが、デザートのパフェ!そもそもこんなビジュアルの食べ物を見たのがあまりに久しぶり過ぎて・・・バナナアイス、バニラアイス、カットバナナにチョコとストロベリーのシロップをかけた極めてシンプルかつ最高の甘味でした。ごちそうさまでした。

 

(つづく)

dasboott.hatenablog.com