ウガンダ生活

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「自分」という相棒(4/5)

 自分という得体の知れないもの

 「自分を愛する」ことについてこうして考えつづけていった結果、そもそも自分とはなんなのか、それはどれほど自明な概念であるのか、私はだんだんと自信がなくなってきました。

自分という存在の定義として「他者と同様己の感情の対象になりうること」かつ「自由意志によってのみ操作されるものではないこと」を思うと、どうもそれは自分が子供の頃から思い描いていたような、まさにそれ自身が「私そのもの」であるといえるような、明確な全体性を持ったものではないように思えてくるからです。

 

そんなことを考えていた矢先、中島義道さんの哲学塾で偶然「自分」というものについて彼が話すのを聞く機会がありました。

彼は「自分」という概念を、時間に沿った一貫性として説明します。この概念を可能にするのは、昨日の私と今日の私、そして明日の私が同一の存在であるという直感に根ざした自己像です。

しかし、人間の細胞の大半は時間とともに新しい細胞にとって代わられていきます。肉体として個人の存在の一貫性はどこまで自明なものなのでしょうか。また肉体が「自分」の容れ物に過ぎないと仮定して、その場合そこに宿る精神はどこに存在しているのでしょうか。一口に「性格」と呼んでも、そこでは生得的要素と後天的要素が不可分に混じり合い、一体を成しているように思えます。

 

また「私は私である」という自認は意識の続く限り存続するものであって、眠っている時、あるいは何かに夢中になっている時(「無我夢中」とは、文字どおり「我」が「無」になる状態を指します)にはそこに途切れが生じることを彼は説明しました。

途切れを経て意識を取り戻した時、途切れの以前と以降の自分が同一であることを保証するのは自らの保持している記憶です。では、記憶を失った人間、あるいは来る未来に可能になった科学技術によって記憶を移植された人間にとって、「自分」というアイデンテティーはどのように保証されるのでしょうか。

 

私にとって哲学的思考の最大の魅力の一つは、自分が「知っている」と思い込んでいた概念が、突き詰めるにつれてばらばらに解けて砕けて、まるで理解不能な未知のものとして立ち現れてくる点にあります。

中島先生の話を聞いて以降、「自分」というこの身近な概念もまた、このように不可解なものの例外ではないことが少しずつ明らかになっていきました。

 

また、これは完全に個人の感覚としての話なのですが、ある程度昔以上の自分のことを、私はほとんど「他人」のように感じて眺めている節があります。

記憶としてはその頃の自分が行なっていたこと、考えていたことを覚えてはいるのですが、私は実際にそのときの感情を再現したり、そのときと同じように振る舞うことはできません。

これは丁度現在において他人の気持ちを推測したり、言葉で当人からその人の考えを伝えてもらうことはできても、その人の立場になってその感情に浸ることはできないことと類似しています。

また、過去においては現在の自分と全く異なった考えを持っていた頃の自分も存在します。現在において共感できる他人と、過去において共感できない自分とを比較したとき、私にとって心理的な距離が近いのは前者です。

このように、時間を遡るほど私にとって自己は他者に近い存在となっていくのです。

インナーチャイルドのように、幼い頃の自分を心理的にイメージして語りかけることで心的外傷の治癒を試みるメソッドなどは、このような過去の己の他者化を利用したものといえるでしょう。

 

自分という友人

三浦望さんという心理カウンセラーがいます。ツイッターで彼女のアカウントを知った私は、彼女のこんな言葉にある気づきを得ました。

 

「大好きな友人のように自分を大切にしてください。健康的で美味しいものを食べさせて、気持ちよく過ごせるよう部屋を整え、お風呂や好きな音楽でリラックスさせてあげてください。気持ちを受け止め、話を聞いてあげてください。私たちが”本当にやらなければいけないこと”は、こういうことなのです」

 

自分の気持ちが落ち込んでいるときや無価値観に苛まれているとき、これまで私は自分を責める傾向にありました。またこの感情が転じて、「周囲から責められている」「嫌われている」というふうに、身の回りの人々にその気持ちを投影してもいました。

このような心理状態で生きていると、世界はとても安全な場所には見えません。結果、排外的になり、他人への攻撃性を帯びるようになります。

また、このような心の分断はその人が見る社会にも投影されますから、私にとって世の中は常に恐ろしい場所としてうつっていました。

 

では、もしここで気持ちの落ち込んでいるのが「自分」ではなく、親しい友人であれば私はどうするのか。おそらく相手の言葉に耳を傾け、辛い気持ちを相手が話すがままに聞き、吐き出すよう促そうとするでしょう。(そのような理想的な態度が実際に取れているかどうかは置いておいて笑)

とてもシンプルなことなのですが、これと同じことを、気持ちが落ち込んでいる自分を親しい友人に見立てて、最近は行うようにしています。

 

特に「美味しいものを食べる」ことは、効果があるように思います。

実は先日、とある悲しいことがあってタクシーに乗りながら泣きじゃくっていたのですが(完全な不審者)、このときコンビニで買ったドーナツを食べていて、急に自分が小さな子供にお菓子を食べさせているような感覚になったことがありました。

「食べる」ことは「生きる」ことと直結した行為であり、また「食べさせる」ことは最も端的な愛情表現の一つでもあります。インナーチャイルドメソッドで幼い頃の自分を「抱きしめる」ことをイメージするように、他者としての自分に何かを「食べさせる」ことが、もしかしてある種イメージ療法のような効果を持ったのかもしれません。

どれほど一般的な感覚なのかはわかりませんが、もし「自分を大切にする」ことを難しく感じている人がいたら、個人的にはオススメの方法です。

フロイトのセオリーに詳しい人なら成長過程の一つである口唇期における愛情欠如の影響云々などと、解説をしてくれそうな気がしないでもないですが・・・(ちなみに、絶え間ない口唇の使用を必要とする喫煙は、愛情飢餓の表れであるなどという指摘もあるにはある)

 

 

(つづく)

dasboott.hatenablog.com