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「生きづらさ」との格闘と、読書5

そもそも愛されることは必要かどうか

振り出しに戻って困り果てていた頃、中目黒のブックオフのワゴンセールで、私はこれまたモテク本と間違えて妙な本を購入します。これがケイティ・バイロンの「探すのをやめたとき愛は見つかるー人生を美しく変える四つの質問(I Need Your Love-Is That True?)」でした。

探すのをやめたとき愛は見つかる―人生を美しく変える四つの質問

探すのをやめたとき愛は見つかる―人生を美しく変える四つの質問

 

内容あらすじ:

著者自身がうつの苦しみのなかから見出した「ワーク」という方法をもとに、思い込みを問い直し、愛の本質に導いてくれる自己啓発の手引書。
「あの人がこう変わってくれたら」という考えに取りつかれている限り、私たちは人間関係の悩みから解放されることはない。

人生の悩みや苦しみは、ほかの誰でもない自分自身の思い込みが作り出しているのであって、変えるべきは他人でなく自分の「考え」なのだ、というシンプルな考え方に基づく。

それまでもっぱら心理学・社会学の書籍に「生きづらさ」への解決策を求めていた私ですが、このケイティ・バイロンという人はこれまでと全く違った角度から私の価値観に切り込んできました。

本の内容に触れる前に、著書が本を執筆するに至った経緯を紹介します。

1986年、バイロン・キャサリーン・リード(「ケイティ」の本名)の人生は、どん詰まりにきていました。10年というもの、パラノイア、激怒、落ち込みがどんどんとひどくなり、何週間も寝込むこともまれではなく、家を出るのも怖くて、歯を磨くことすらできなくなっていたのです。そんなある朝、突然、ケイティは目覚め、現実に対するまったく異なる視点を持つことになりました。そこには、自分が誰であり、何者なのかという概念はまったくありませんでした。

実はこのケイティさん、重度のうつ病からどういう魔法かある朝「すべての苦しみは私の考えが作り出したものだ」という結論にいきなりジャンプし、そこからひとりでに回復したという、すさまじいおばさんなのです。さすがに地元で噂になったようで、周囲の人に求められる形で彼女はその後自らの考えを広めていきます。

正直初めはめちゃくちゃ胡散臭い・・・と思ったのですが、よくよく読めばいわゆるスピリチュアル系や引き寄せなどとは全く違うことがわかります。

ケイティ・バイロンのメッセージの根底にあるのは、「現実は優しい」というキーワード。今起こっていることに対して「こうあるべきではない」と思うところから苦しみが始まる、という仏教のような思想でもあります。いかにして目の前の現実を完全なる調和として見るか、そのために彼女は「自分自身」と「自我の考え」を切り離し、後者を絶えず問いかけ直していくことの重要性を説きます。

この本に出てくる、私のとても気に入っているたとえ話が一つあります。ある少女がいて、その子が指をパチンと鳴らします。すると周りにいた子供達が「すごい!」と言って両手を叩く。そのとき初めてその女の子は周りに人がいたことに気づくのですが、同時に彼女は自分が何か素晴らしいものを発見したことに気づきます。それが他人からの賞賛です。それ以降彼女が指を鳴らすのは、けしてその行為そのもののためではありません。行為の結果たまたま得られた他者からの賞賛が、いかにその人にとって目的化していくかという話です。

本の前半は、私たちがいかに幼い頃から「相手によく思ってもらう、好かれる、愛される」ことに意識を注いでいるかを、あらゆるエピソードを用いて説明します。このような考えがそもそもなければ、私たちはどう振る舞うだろう?いやその方がむしろ、相手のありのままを捉えられるのではないか?「私をよく思って欲しい」と思うあまり、あなたは目の前の相手を見失ってはいまいか?これがこの本の肝です。

実際、私はケイティがここで指摘するような自意識のがんじがらめの最中でした。

この本の素晴らしいところは、気づきを促すエピソードに溢れているだけでなく、ザ・ワークのメソッドが非常に実用的であるという点にもあります。詳細はここでは述べませんが、インターネット上で無料公開もされているので、興味のある人は是非見てみてください。(参照:The Work of Byron Katy)

もう一つ、ケイティの著書によって得た気づきが、「義憤は必要ない」というものでした。フロムの資本主義社会批判に惹かれつつ、小売企業で利益創出のために奔走していた私は、社会のあり方のあらゆる点が間違っているように感じていました。典型的な社会活動家の陥りがちな罠として、「世の中に働きかけるために、社会の現状に怒りを抱く必要はない」とケイティは述べます。怒りは目をくらませ、働きかける相手と、あなたを繋ぐ橋を壊すからです。

義憤は私にとって快感でもありました。なぜなら他人を裁くのは楽しいから。己の正しさを確信し、革命的な世直しを夢見るのは、私にとって一つの娯楽でもありました。しかし現実に一発逆転はありません。また、私が社会に目を向けるとき、そこに私が見出す分断は私の心の投影でもあります。

より良き社会のために、他者のために生きるという目標のそれまでの明確さに、翳りが生まれ始めていました。