ウガンダ生活

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「生きづらさ」との格闘と、読書3

「愛されたい」が高じて

この頃から私の最大の関心は、異性関係においていかに無限大の愛情をパートナーから取り付けるかということへ移っていきました。子供時代の親との関係が交換不可能なものならば、その分今から新しい誰かに愛されなければ割に合わない、といった具合です。逆に言えば、誰かに絶対的に愛されることで自己肯定感を回復できれば、これらの「生きづらさ」から解放されるはずだと考えていました。

ブックオフで100円で投げ売りされているモテク本から、世界的にベストセラーになったジョン・グレイの著書やザ・ルールズシリーズまで、あらゆる恋愛関係の指南本を読み漁っていました。大学に入るまで色恋沙汰と縁ががまったくなかったので、青春への復讐という側面もあったでしょう。

そんなとき偶然渋谷のブックファーストで発見したのが、エーリッヒ・フロム著「愛するということ(The Art of Loving)」でした。

愛するということ 新訳版

愛するということ 新訳版

 

 詩人の谷川俊太郎さんが帯にコメントを寄せているような、流行りのモテク本からは随分と懸け離れた堅い書籍なのですが、タイトルを見て何か勘違いして買ったのだと思います。これが読書によって人生が変わった二度目の体験でした。

愛について学ぶことはないと(人々が)考える第一の理由は、たいていの人は愛の問題を、「愛する能力」の問題ではなく、「愛される」という問題として捉えているからだ。

つまり人々にとって重要なのは、どうすれば愛されるか、どうすれば愛される人間になれるかということなのだ。 

冒頭から、頭を殴られたような衝撃でした。

序章の中でフロムが批判する資本主義社会における現代人の標本は、私そのものでした。

愛は技術だろうか。技術だとしたら、知識と努力が必要だ。

愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。その中に"落ちる"ものではなく自ら"踏み込む"ものである。

原題"The Art of Loving"は直訳すれば、そのものズバリ「愛の技術」。上記引用からもわかるように、フロムは愛というものを「愛するに足りる否か」といった対象の問題ではなく、行為者の意思によって行う、習得可能な技術として捉えています。

またこれに並行してもう一つ衝撃的だったのが、「心理学においてはよく知られているように、当人自身もまた本人の感情の対象になりうる(うろ覚え・・・)」といった一文でした。愛を技術と捉えるフロムにとって、つまり己を愛することと他者を愛することは、矢印の向きが異なるだけで、基本的には同じエッセンスを持った行為だということです。よく「自分を愛せない人間は、他人も愛することができない」と言いますが、性格のひねくれた私はこのぐらい平易な説明を受けて初めて、やっとのことでピンときたのでした。

他者に自らを肯定してもらわないと生きていけないと感じていた私は、間違いなく自分を愛していませんでした。この本によれば、自分を愛せないということは、対象が何であれそもそも「愛する」技術に欠けているということであり、当然他人を愛するなど以ての外ということになります。

愛とは愛を生む力であり、愛せないということは愛を生むことができないということである

愛する能力の欠如は、他人の心に愛を生む能力、すなわち愛される能力の欠如でもあるわけです。他人に愛されたくてしょうがない私は、こりゃいかんとばかりに「愛される」ためにも「愛する」ことを学ばねば!と息巻きます。

この本の中でエーリッヒ・フロムは愛するということを決して抽象的であやふやなものとしてではなく、行為を伴った具体的なものとして捉えます。

愛の本質は、何かのために「働く」こと、「何かを育てる」ことにある。

この頃丁度私は大学を卒業して初めての会社で働き始めた頃でした。新卒採用者は幹部候補生としてマネージャーを目指すことを促されていました。人材育成に重きを置いた企業文化もあり、ここでチームの社員を「愛する」ことのできるマネージャーを目指し、彼らのために「働く」ことが当座の私の目標になりました。

ちなみに「愛するということ」にはもう一つ、私が大きな影響を受けた側面がありました。資本主義社会批判及び、マルクス哲学です。フロムは現代社会における愛の欠落の病理を、資本主義の弊害として批判します。就職活動を通じて経済社会の成長主義に素朴な疑問を抱いていた私には、これが自分に与えられた新たな使命への道のように感じました。

このことは、のちに色々問題のある考えであるとも気づくのですが・・・。