「生きづらさ」との格闘と、読書6
もしかして人間嫌い?
フロムの「愛するということ」を読んで以来長らく、私はすごく博愛的な人間を目指していたし、自分にそうなるポテンシャルがあると思い込んでもいたのですが、ケイティの著作を読んで初めて私は「そもそも私は自分の存在価値を確かめる道具としてしか他人を見ていないのではないか?」という疑問に突き当たりました。
マネージャーとしてチームの人間に対し「愛したい」、「役立ちたい」と願ったのは、単なるメサイアコンプレックスではないか?
他人に依存することは、自らの生殺与奪権をその人に与えるということでもある。そこでは服従はいつも、抑圧された憎しみを帯びる。だから私は周囲の人間とうまくいかないのではないか?
ちなみにフロムの「愛するということ」が素晴らしいのは、ずっと後になって私が思い当たったこれらのことも、実は本の中でしっかりと言及されているという点なんですね。読書によって得られる知識は経験に裏打ちされて初めてその真価を発揮することを痛感するばかりです。
この頃、私は何もかもが嫌になっていました。どのくらい嫌だったのかというと、坂口恭平さんの「0円ハウス」というホームレスの家の写真集や、吾妻ひでおさんの「失踪日記」を読んで、ひたすら人里離れたところに隠居する妄想ばかりしていました。
そんな私の前に颯爽と表れた人間嫌いのヒーローが、中島義道さんでした。
初めて手に取った著作は、その名もズバリ「人生を<半分>降りる」
あらすじ内容:
やがて確実に訪れる死を前にすると、「哲学的な生き方」をするために残された時間は短く、不要なことは出来る限り省くほかない。そのように自己中心的な態度を貫き、世間と妥協せずに生きることは、結果として不幸をもたらすことになるが、それを自覚して生きることこそが大事なのだ。「半隠遁」という宙ぶらりんな生き方に潜む、懐疑的で批判的な精神の意味を解き明かす。
中島さんがここで示してているのは、「自分に嘘をつかない」という非常にシンプルな「生きづらさ」の解決手段です。最低限の儀礼は通しつつも、そこには「愛されることを目指す」なんていう軟弱な精神は微塵も存在しません。そういう意味では、「嫌われる勇気」にも通じるものがあります。
この人の非常に自覚的な自己中心性を目の当たりにして、いかに自分が他人に迎合してきたか、かつどれほどそこに「私を好きになってほしい」といういやらしい下心があったか、思い知らされたような気分でした。
彼の著作に通底するのは「どうせ死んでしまうのに」という揺るがない虚しさです。2010年に直前までぴんぴんしていた父親が急死したこともあって、このうっすらとした虚しさには非常に共感できました。それどころか、死について誠実に向き合おうと思えば思うほど、その他のすべてのことは些末な出来事に過ぎないようにも思えてきました。
中島さんのもう一つ素晴らしいところは、私の知る限り国内に類似する作家が見当たらないというところです。中島節を読みたかったら、彼の著作を読むしかない。そんなわけでその後10冊以上は彼の著作を購入し、しまいには彼の主宰する哲学塾に参加までしました。
「人生を<半分>降りる」で社会的な価値に対して疑いの眼差しを投げかけた中島先生は、その後「明るいニヒリズム」で今度は時間という概念にその矛先を向けます。過去とは何か?未来とは何か?そもそも時間とは何か?それは存在しているのか?存在しているとすれば、いかなる形で存在しているといえるのか?
哲学の緻密な思考についていけない私の脳みそでは、せいぜいこの時間という概念のあやふやさを不思議に感じるぐらいの理解までしか及びませんでしたが、それでも十分にスリリングな読書体験でした。
それまで社会の中で、社会的な価値、人間関係における価値に向けられていた私の目が、一気に個人の世界、思考の世界に開かれていきました。