ウガンダ生活

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「生きづらさ」との格闘と、読書7

生きていてもしょうがない・・・

しかしこの急旋回は、私にはいささかの劇薬でした。

それもそのはず、それまで二十数年間を「他人に愛されること」だけをほぼ唯一の目的にして生きてきたのだから、そうすぱっと他に代わる人生の目的が見つかるはずもありません。

私には中島先生のような「これができるなら、他人にどう思われたっていい」という生き生きとした我儘な欲望などありませんでした。

他人に愛されるために自分に嘘をつく苦行から逃れても、他に積極的な人生の喜びが自動的に見出されるわけではありません。

私にとって「死」について考えることは人生における一切の悩みを相対化する強力なカードでしたが、それは同時に生きるという行為のすべてをも相対化してしまう、無価値観・無力感のスイッチでもありました。なんといったって、何を成し遂げたとしても、どうせいつかは死んでしまうのです。社会に何らかの爪痕を残したところで、その社会も、いずれはこの星もろとも(あるいは宇宙もろとも)滅びます。

中島さんの場合「だからこそ大好きな哲学に限られた時間を注ごう」と言えるのですが、他にしたいこともない私は、結果として当然のごとく緩やかかつ恒常的な"ロー"状態に陥っていきました。

 

ぼんやりと「これじゃまずいなあ」と感じ始めた私の目に留まったのが、「夜と霧」のヴィクトール・E・フランクルでした。「それでも人生にイエスと言う」などの著作を残したユダヤ人強制収容所の生き残りであり、戦後ロゴセラピーを提唱したことでも知られる、ドイツの精神科医です。

夜と霧 新版

夜と霧 新版

 

内容あらすじ:

   ユダヤ人精神分析学者がみずからのナチス強制収容所体験をつづった本書は、わが国でも1956年の初版以来、すでに古典として読みつがれている。

   著者は学者らしい観察眼で、極限におかれた人々の心理状態を分析する。なぜ監督官たちは人間を虫けらのように扱って平気でいられるのか、被収容者たちはどうやって精神の平衡を保ち、または崩壊させてゆくのか。こうした問いを突きつめてゆくうち、著者の思索は人間存在そのものにまで及ぶ。というよりも、むしろ人間を解き明かすために収容所という舞台を借りているとさえ思えるほど、その洞察は深遠にして哲学的である。

生きていることの意味がわからなくなったとき、人は「私は何のために生きているのだろう?」と問います。逆転の発想で、この問いをそのまま自分たちへ向けて反転させたのがフランクルでした。

私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは間われている存在なのです。私たちは、人生がたえずその時その時に出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。

上記と並んで、「夜と霧」におけるもう一つの大きなテーマは、信仰心です。極限の状態にあって、人間性を保つ方法の一つが宗教だと指摘されています。同じことは神谷美恵子さん著「生きがいについて」でも言われていました。人生に対する希望を最後まで失わなかったハンセン病患者の中には、信仰心がその支えになった人々が少なくありませんでした。

他にも「識られざる神」の中で、フランクルは精神分析において宗教と信仰が持ちうる意義を指摘します。宗教にしか救えない、心の在り処というものが私の視界に浮かび上がってきました。

しかし、私は間違いなく無神論者です。こればかりはどうしようもありませんでした。

また、極限状態を生き延びる最良の方法が神への信仰心であるならば、人間は存在しないものにすがらないと生きていけないのだろうか?という疑問が今度は湧き上がります。これには端的に、「なんて虚しいんだろう」と感じました。

ここから私にとって神様は「存在する・しない」ものではなく、「存在していてほしい」ものへと変わってゆきます。

その切実さにかられて、私はあえて反対陣営であるリチャード・ドーキンスの宗教批判、「神は妄想である-宗教との決別」を手に取りました。無心論者の急先鋒に立つ彼の論理に穴を見つけることで、無神論という己の強力な基盤をひっくり返すためです。・・・結果は、ドーキンスの完勝でした。