ウガンダ生活

ウガンダ・ブイクウェの生活を実況中継中

「生きづらさ」との格闘と、読書10

社会以前へ

こんな風にして私の「生きづらさ」は時間をかけ、紆余曲折をへて、ときに思わぬことをきっかけにしながら、少しずつ軽減していきました。

もちろんいきなり全てが怖くなくなったわけではありません。依然として将来への不安はあるし、発作的な孤独感に襲われて夜眠れなくなることもあります。けれども、全体として私の人生はずっと楽になりつつあるように感じます。少しずつ、他人に嫌われることも、一人でいることも、平気になってきている気がします。といっても今後、さらなる課題が立ち現れてくることは間違い無いと思われますが・・・。

最後に、一番最近私が深く感銘を受けた書籍を紹介して一連の記事を終わりにしようと思います。ジョーゼフ・キャンベル&ビル・モイヤーズの「神話の力」です。 

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 内容あらすじ:

世界中の民族がもつ独自の神話体系には共通の主題や題材も多く、私たちの社会の見えない基盤となっている。神話はなんのために生まれ、私たちに何を語ろうというのか?ジョン・レノン暗殺からスター・ウォーズまでを例に現代人の精神の奥底に潜む神話の影響を明らかにし、綿々たる精神の旅の果てに私たちがどのように生きるべきか、という問いにも答えていく。神話学の巨匠の遺作となった驚異と感動の名著。

もともとこれといって神話に関心があったわけではなく、この本を手に取ったのは全くの偶然でした。けれどここまでに紹介した他の書籍と同じく、「これはまさに今の私のために書かれた本だ」と思ってしまうような、私の知らなかったこと、知りたかったこと、知っていたけれど言語化できないでいたことの多くを、キャンベル先生はここで語っています。

人生の不都合な点はみんな両親のせいにするがいい、とフロイトは言っています。マルクスは、みんな社会の上流階級の責任だという。しかし、責任を負うべきものは自分自身です。・・・偶然に生じたのでは無いことが、あなたの人生にあるでしょうか。これは、偶然を受け入れることができるか否かの問題です。最終的には人生は偶然で成り立っている

フロイト的原因論にも、マルクス哲学にも心酔した経緯のある私にはなんと耳に痛い言葉でしょうか・・・。そして最後の一文は、ニーチェのごとき生の絶対的肯定を思わせます。偶然で成り立っている生を肯定するとは、そこに含まれる喜びだけでなく、苦痛も共に受け止めるということです。 

生きることのすべては悲苦である、とはブッダの最初の教えですが、まさにその通りですね。生きることに「はかなさ」が伴わぬかぎり生とは言えません。はかなさは悲しみですー喪失、喪失、喪失。あなたは生を肯定し、このままでもすばらしいものだと見るべきです。

さて、長い間私は「生きづらさ」をあくまで自分に固有のものとして見てきました。だからこそその原因を生い立ちや家庭環境に求めていたわけです。けれどもこの本を読んで新たに思い当たった可能性は、そもそもこういった感情は極めて当たり前のものであり、社会の中にあふれているだけでなく、社会以前の人類にも存在していたのではないかということでした。

キャンベル先生によれば、世界中のあらゆる文化圏の神話にはひどく似通ったシンボル、隠喩、物語、元型が登場します。このことが示唆するのは、人類に共通の無意識のあり方が存在するということです。ユングの夢分析に触れてキャンベル先生は言います。

神話は公的な夢であり、夢は私的な神話である。

ここに見られるのは、誕生から死にいたるまで、人類の歴史を通じて最も普遍的な人生のあり方、感情のあり方、そして苦悩のあり方です。例えば、決して避けられない死とどう向き合うか、といった。

ちなみに彼は伝統的宗教や神話に登場する個別のエピソードの多くを、あくまで隠喩として理解されるべきものとして、特に宗教の教義そのものを文字通り盲信することは批判しています。非常に合理的な人です。

科学と神話は矛盾しません。科学は今や神秘の次元に突入しています。

以前であればいまいちピンとこなかったと思うのですが、宇宙科学に触れることよってこの世の存在の摩訶不思議を痛感した後の私は、彼のこのような発言にもとても納得が行くようになりました。 

さて、キャンベル先生は「生きづらさ」に向き合う術についてのみでなく、人生の積極的な意味についても語っています。

私が一般論として学生たちに言うのは、「自分の至福を追求しなさい」ということです。自分にとっての無上の喜びを見つけ、恐れずそれについていくことです。

ここで語られているのは社会やシステムにとってではなく、あくまで自分個人にとっての意味、価値の話です。これにもまた私は深く共感しました。というのも私にとってこの生はただの一般的な生ではなく、後にも先にも私という個人がただ一回限り生きることのできる、固有の経験として立ち現れてくる、むしろそれ以外のいかなる立ち現れ方もしないものであるということを、最近骨身にしみて感じるようになったからです。

今の私にとって「自分の至福」とは、本を読むこと、美しいものを鑑賞すること、そして美味しいものを食べることです。正直に言って、子供の頃自分が描いていた理想の大人像からすると、個性にもパンチにも著しく欠けています。けれど本を読んでいて新しいアイディアに出会えたときや、美しい音楽を聴いたときに私が感じる喜び、美味しいものを食べた時の感動は、私にとって他のいかなる価値にも代えがたい、かけがえの無いものです。そして理屈抜きに、こういったことを体験するためにこの限られた人生を使うことが、今の私には最も価値があるように思えます。

 

さて、とんでもない自己満足の長文記事でしたが、最後まで読んでいただいた奇特な方には、何か少しでも発見や面白みがあればと願うばかりです。どうもありがとうございました。

最後に、この本の中で私の一番好きなキャンベル先生の言葉で締めたいと思います。

いきいきとした人間が世界に生気を与える。これには疑うよりはありません。生気の無い世界は荒れ野です。人々は、物事を動かしたり、制度を変えたり、指導者を選んだり、そういうことで世界を救えると考えている。ノー、違うんです!生きた世界ならば、どんな世界でもまっとうな世界です。必要なのは世界に生命をもたらすこと、そのためのただひとつの道は、自分自身にとっての生命のありかを見つけ、自分がいきいきと生きることです。

「生きづらさ」との格闘と、読書9

意味の向こう側

ここから、私の興味は哲学・社会学・心理学から、急激に科学の分野へ移行していきます。

自分の「生きづらさ」を分析・解体するために、私はこれまでずっと社会の中における人間の「あるべき姿」に目を向けてきました。けれど今やこの「べき」こそが現実と理想のギャップとなって私に新たな「生きづらさ」を感じさせるという、まさに悪循環の中に私はいました。

このようなフィルターを取り除き、人間が現在「あるがままの姿」、また私たちを取り囲む世界のあり方そのものを学びたい、自分の中の「べき」を手放したい。これが私の新たな望みとなりました。ここまでくると、我ながら自分の切実さが笑えてくるのですが・・・。

この頃丁度、亡くなった父が私に残したスティーブン・ホーキングの各著作を読み始めました。

ホーキング、宇宙のすべてを語る

ホーキング、宇宙のすべてを語る

  • 作者: スティーヴン・ホーキング,レナード・ムロディナウ,佐藤勝彦
  • 出版社/メーカー: ランダムハウス講談社
  • 発売日: 2005/09/30
  • メディア: 単行本
  • 購入: 1人 クリック: 23回
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内容あらすじ:

私たちは、宇宙について本当は何を知っているのでしょうか?
私たちが正しいと思っていることは、本当に正しいのでしょうか?
宇宙はどこから来て、どこに行くのでしょうか?
『ホーキング、宇宙を語る』でも取り上げていたこの根源的な問題に対して、現代までに考えられてきた重要な発見・理論のポイントを、よりわかりやすく説明するとともに、最新の理論や観測の成果を盛り込んだ、ホーキング博士待望の新刊!
第1章「宇宙について考える」に始まり、時代によって移り変わってきた宇宙像や科学理論、最近の進歩などを、私たちの身近にある例を用い、平易な言葉で語っています。

宇宙の始まり・終わり、ブラックホール、量子力学といったテーマは、その難解さに頭を抱えさせられつつも、まさにこの世の摩訶不思議という「良質な詩」を私に届けてくれました。世界はそれそのもので、すでに十分な驚きであり、不思議であり、そして何より美である。最先端の宇宙科学が私に示してくれるのは、このような世界観です。

自分の価値を確かめたくてかつて社会に向けられていた私の目は、やがて社会の表面を通り過ぎ、意味や価値の表面を通り過ぎ、その向こうの「ただ存在している」というあり方について考えるに至ります。理由なく存在することが、「無価値」や「悪」なのではない。「ただ存在する」ということに、私たち人間文化の価値判断が意味を被せているだけなのだと。

実はここまで延々と書いておいて、上記のように考えられるに至った決定打を私は覚えていません。おそらくは年数を経るにつれて徐々に考え方が変わっていったという側面が大きかったと思います。

こんな風に「ただ存在する」という選択肢を、己の生き方として受け入れ始めた時に、私は以前の自分よりも少しだけ恐怖や不安を手放せるようになり始めました。

これまでの私のあがきの全ては、「存在するための理由」の獲得に向けられていました。それこそがわたしの「生きづらさ」の核でした。けれど改めて周囲を見渡してみれば、「ただ存在している」のでないものなど何一つ見当たらないどころか、それこそが存在そのものの本質であるということに行き当たります。

そもそも、「存在している」とはなんなのでしょう?

松原隆彦さんの「宇宙に外側はあるか」は、私にそんな素朴な疑問を投げかけてくれた一冊でした。

宇宙に外側はあるか (光文社新書)

宇宙に外側はあるか (光文社新書)

 

あらすじ内容:

21世紀の現代、人類は観測技術の発達などによって宇宙を見る目が大きく開かれつつある。いま、宇宙の何がわかっていて、何がわかっていないのか? 宇宙の全体像とは? 宇宙の「外側」とは? 「奇妙な謎」に包まれた人宇宙を人類はどこまで知ることができるのか? 気鋭の研究者が、誰もが一度は考えたことがある「究極の問い」に真正面から迫る、宇宙論のフロンティアへと旅立つ一冊。 

「何かが存在」していると言うとき、私たちはその対象物と時空の中に位置づけて思い浮かべる必要があります。しかし時間と空間は絶対のものではなく、相対的なものであり、それはこの宇宙の誕生とともにその中に生まれたものだと、科学は説きます。私は時間も空間をともなわない「何か」を想像することすらできません。その「何か」が宇宙の前にあった、と表現するためですら、「前に」(時間)「あった」(空間)という概念を必要としてしまうからです。「存在」を「非存在」と対置することのできない私にとって、「存在している」とはそれが何であるかを明確に述べられるような、理解可能な概念ではないのです。科学は今、明らかに人間の認知の限界に触れています。

こんな風にして宇宙科学、量子力学は、これまで当たり前に捉えていた世界それ自体がすでに私の理解の範疇を優位に超えていることを教えてくれました

神秘主義者マイスター・エックハルトは「認識しえないもの」としての神について繰り返し触れています。私はキリスト教やイスラム教の描く一神教の神がこの世界を作ったとは信じていませんが、そもそもこの世界が存在していると言うことそのものが、それ自体すでに神の概念に匹敵する不思議であり、超越性であると感じるようにはなりました。

「生きづらさ」との格闘と、読書8

「虹の解体」

おそらく生まれてからずっと一神教的な世界観のもと生きているひとにとって、神様のいない世界を思い描くのが困難であるのと同じように、私の無神論者としての立場もまた頑なに揺らぐことはありませんでした。それどころか上記著書を始めとしたドーキンスの身も蓋もない各著作を読むにつれて、この見解はますます固められていくこととなります。

キリスト教信者からはしばしば悪魔の手先のごとく言われているドーキンスですが、神の存在や、宗教的な利他性に人間の存在意義を見出そうとしない彼のドライな人間観は、ここにきて私の世界の捉え方に新たな風穴を開けてくれました。

それは、「そもそもなぜ私たちは超越者を必要とするのか?」「なぜ生物に本来備わった利己性を憂うのか?」という素朴な疑問です。

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

  • 作者: リチャード・ドーキンス,日高敏隆,岸由二,羽田節子,垂水雄二
  • 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
  • 発売日: 2006/05/01
  • メディア: 単行本
  • 購入: 27人 クリック: 430回
  • この商品を含むブログ (197件) を見る
 

内容あらすじ:

「なぜ世の中から争いがなくならないのか」「なぜ男は浮気をするのか」―本書は、動物や人間社会でみられる親子の対立と保護、雌雄の争い、攻撃やなわばり行動などが、なぜ進化したかを説き明かす。この謎解きに当り、著者は、視点を個体から遺伝子に移し、自らのコピーを増やそうとする遺伝子の利己性から快刀乱麻、明快な解答を与える。 

ベストセラー「利己的な遺伝子」は、それまでの私の人間観に強烈なひびを入れました。彼の言葉でいう「遺伝子の乗り物」としての人間像は、「意思決定する生物」という自己イメージを疑い始めるきっかけになりました。遺伝子によって全てが運命付けられているとまではいえないまでも、少なくとも私はもしかして自分が思っているほど自由意志を持った存在ではないかもしれないという、漠然とした直感を私は抱きました。

またこのような人間観・世界観をもってして健康的に生きていける、ドーキンスその人の神経の図太さに私は驚きました。彼は決してペシミストやニヒリストではありません。無価値観にも、無力感にも苛まれていません。「虹の解体」ではむしろ科学を通じてこの世の不思議を生き生きと伝えてくれる、知性と好奇心に満ちた一面を見せてくれています。

ちなみにこの本のタイトルは非常に示唆に富んでいます。かつての人々にとって虹は摩訶不思議なものでした。科学によってそのメカニズムが明らかにされたとき、ある人々は「虹の魔法が失われてしまった」といって嘆きます。ドーキンスの世界観を「無味乾燥で、味気ない」と感じる人の見方がこれだとすれば、虹のメカニズムそのものがこの世の不思議であり、奇跡であり、詩的な美であるとするのが彼の主張です。そこに彼は生きる喜び、情熱を見出しています。そのような科学のメカニズムに、例えば根拠のないアナロジーを見出すことは、「悪質な詩」である。科学は人間に備わった認知の歪みの誘惑を退ける「良質な詩」でなければいけないと彼は訴えます。その徹底的な誠実さに私は心を打たれました。

同時にここで私の考えを密かに支えたのが、いつかのアドラーの「人生それそのものには意味はない」という、意外なほどあっさりとした断言でした。「意味がない」というのは希望の否定ではなく、人間のあらゆる二元論的価値判断を退ける、いわば「希望/絶望のどちらでもない」状態をさします。この世にただ宇宙が存在し、そこに無数の星が存在し、その一つに私たち人間が住んでいる。それ以上でも、それ以下でもない。それまで私の世界をすっぽりと覆っていたかに見えた「価値」や「意味」の膜は、見た目以上に脆く、思わぬところで私はその向こう側へと滑り落ちてしまったのです。

「生きづらさ」との格闘と、読書7

生きていてもしょうがない・・・

しかしこの急旋回は、私にはいささかの劇薬でした。

それもそのはず、それまで二十数年間を「他人に愛されること」だけをほぼ唯一の目的にして生きてきたのだから、そうすぱっと他に代わる人生の目的が見つかるはずもありません。

私には中島先生のような「これができるなら、他人にどう思われたっていい」という生き生きとした我儘な欲望などありませんでした。

他人に愛されるために自分に嘘をつく苦行から逃れても、他に積極的な人生の喜びが自動的に見出されるわけではありません。

私にとって「死」について考えることは人生における一切の悩みを相対化する強力なカードでしたが、それは同時に生きるという行為のすべてをも相対化してしまう、無価値観・無力感のスイッチでもありました。なんといったって、何を成し遂げたとしても、どうせいつかは死んでしまうのです。社会に何らかの爪痕を残したところで、その社会も、いずれはこの星もろとも(あるいは宇宙もろとも)滅びます。

中島さんの場合「だからこそ大好きな哲学に限られた時間を注ごう」と言えるのですが、他にしたいこともない私は、結果として当然のごとく緩やかかつ恒常的な"ロー"状態に陥っていきました。

 

ぼんやりと「これじゃまずいなあ」と感じ始めた私の目に留まったのが、「夜と霧」のヴィクトール・E・フランクルでした。「それでも人生にイエスと言う」などの著作を残したユダヤ人強制収容所の生き残りであり、戦後ロゴセラピーを提唱したことでも知られる、ドイツの精神科医です。

夜と霧 新版

夜と霧 新版

 

内容あらすじ:

   ユダヤ人精神分析学者がみずからのナチス強制収容所体験をつづった本書は、わが国でも1956年の初版以来、すでに古典として読みつがれている。

   著者は学者らしい観察眼で、極限におかれた人々の心理状態を分析する。なぜ監督官たちは人間を虫けらのように扱って平気でいられるのか、被収容者たちはどうやって精神の平衡を保ち、または崩壊させてゆくのか。こうした問いを突きつめてゆくうち、著者の思索は人間存在そのものにまで及ぶ。というよりも、むしろ人間を解き明かすために収容所という舞台を借りているとさえ思えるほど、その洞察は深遠にして哲学的である。

生きていることの意味がわからなくなったとき、人は「私は何のために生きているのだろう?」と問います。逆転の発想で、この問いをそのまま自分たちへ向けて反転させたのがフランクルでした。

私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは間われている存在なのです。私たちは、人生がたえずその時その時に出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。

上記と並んで、「夜と霧」におけるもう一つの大きなテーマは、信仰心です。極限の状態にあって、人間性を保つ方法の一つが宗教だと指摘されています。同じことは神谷美恵子さん著「生きがいについて」でも言われていました。人生に対する希望を最後まで失わなかったハンセン病患者の中には、信仰心がその支えになった人々が少なくありませんでした。

他にも「識られざる神」の中で、フランクルは精神分析において宗教と信仰が持ちうる意義を指摘します。宗教にしか救えない、心の在り処というものが私の視界に浮かび上がってきました。

しかし、私は間違いなく無神論者です。こればかりはどうしようもありませんでした。

また、極限状態を生き延びる最良の方法が神への信仰心であるならば、人間は存在しないものにすがらないと生きていけないのだろうか?という疑問が今度は湧き上がります。これには端的に、「なんて虚しいんだろう」と感じました。

ここから私にとって神様は「存在する・しない」ものではなく、「存在していてほしい」ものへと変わってゆきます。

その切実さにかられて、私はあえて反対陣営であるリチャード・ドーキンスの宗教批判、「神は妄想である-宗教との決別」を手に取りました。無心論者の急先鋒に立つ彼の論理に穴を見つけることで、無神論という己の強力な基盤をひっくり返すためです。・・・結果は、ドーキンスの完勝でした。

「生きづらさ」との格闘と、読書6

もしかして人間嫌い?

フロムの「愛するということ」を読んで以来長らく、私はすごく博愛的な人間を目指していたし、自分にそうなるポテンシャルがあると思い込んでもいたのですが、ケイティの著作を読んで初めて私は「そもそも私は自分の存在価値を確かめる道具としてしか他人を見ていないのではないか?」という疑問に突き当たりました。

マネージャーとしてチームの人間に対し「愛したい」、「役立ちたい」と願ったのは、単なるメサイアコンプレックスではないか?

他人に依存することは、自らの生殺与奪権をその人に与えるということでもある。そこでは服従はいつも、抑圧された憎しみを帯びる。だから私は周囲の人間とうまくいかないのではないか?

ちなみにフロムの「愛するということ」が素晴らしいのは、ずっと後になって私が思い当たったこれらのことも、実は本の中でしっかりと言及されているという点なんですね。読書によって得られる知識は経験に裏打ちされて初めてその真価を発揮することを痛感するばかりです。

この頃、私は何もかもが嫌になっていました。どのくらい嫌だったのかというと、坂口恭平さんの「0円ハウス」というホームレスの家の写真集や、吾妻ひでおさんの「失踪日記」を読んで、ひたすら人里離れたところに隠居する妄想ばかりしていました。

そんな私の前に颯爽と表れた人間嫌いのヒーローが、中島義道さんでした。

初めて手に取った著作は、その名もズバリ「人生を<半分>降りる」

人生を「半分」降りる―哲学的生き方のすすめ (ちくま文庫)

人生を「半分」降りる―哲学的生き方のすすめ (ちくま文庫)

 

 あらすじ内容:

やがて確実に訪れる死を前にすると、「哲学的な生き方」をするために残された時間は短く、不要なことは出来る限り省くほかない。そのように自己中心的な態度を貫き、世間と妥協せずに生きることは、結果として不幸をもたらすことになるが、それを自覚して生きることこそが大事なのだ。「半隠遁」という宙ぶらりんな生き方に潜む、懐疑的で批判的な精神の意味を解き明かす。

中島さんがここで示してているのは、「自分に嘘をつかない」という非常にシンプルな「生きづらさ」の解決手段です。最低限の儀礼は通しつつも、そこには「愛されることを目指す」なんていう軟弱な精神は微塵も存在しません。そういう意味では、「嫌われる勇気」にも通じるものがあります。

この人の非常に自覚的な自己中心性を目の当たりにして、いかに自分が他人に迎合してきたか、かつどれほどそこに「私を好きになってほしい」といういやらしい下心があったか、思い知らされたような気分でした。

彼の著作に通底するのは「どうせ死んでしまうのに」という揺るがない虚しさです。2010年に直前までぴんぴんしていた父親が急死したこともあって、このうっすらとした虚しさには非常に共感できました。それどころか、死について誠実に向き合おうと思えば思うほど、その他のすべてのことは些末な出来事に過ぎないようにも思えてきました。

中島さんのもう一つ素晴らしいところは、私の知る限り国内に類似する作家が見当たらないというところです。中島節を読みたかったら、彼の著作を読むしかない。そんなわけでその後10冊以上は彼の著作を購入し、しまいには彼の主宰する哲学塾に参加までしました。

「人生を<半分>降りる」で社会的な価値に対して疑いの眼差しを投げかけた中島先生は、その後「明るいニヒリズム」で今度は時間という概念にその矛先を向けます。過去とは何か?未来とは何か?そもそも時間とは何か?それは存在しているのか?存在しているとすれば、いかなる形で存在しているといえるのか?

哲学の緻密な思考についていけない私の脳みそでは、せいぜいこの時間という概念のあやふやさを不思議に感じるぐらいの理解までしか及びませんでしたが、それでも十分にスリリングな読書体験でした。

それまで社会の中で、社会的な価値、人間関係における価値に向けられていた私の目が、一気に個人の世界、思考の世界に開かれていきました。

「生きづらさ」との格闘と、読書5

そもそも愛されることは必要かどうか

振り出しに戻って困り果てていた頃、中目黒のブックオフのワゴンセールで、私はこれまたモテク本と間違えて妙な本を購入します。これがケイティ・バイロンの「探すのをやめたとき愛は見つかるー人生を美しく変える四つの質問(I Need Your Love-Is That True?)」でした。

探すのをやめたとき愛は見つかる―人生を美しく変える四つの質問

探すのをやめたとき愛は見つかる―人生を美しく変える四つの質問

 

内容あらすじ:

著者自身がうつの苦しみのなかから見出した「ワーク」という方法をもとに、思い込みを問い直し、愛の本質に導いてくれる自己啓発の手引書。
「あの人がこう変わってくれたら」という考えに取りつかれている限り、私たちは人間関係の悩みから解放されることはない。

人生の悩みや苦しみは、ほかの誰でもない自分自身の思い込みが作り出しているのであって、変えるべきは他人でなく自分の「考え」なのだ、というシンプルな考え方に基づく。

それまでもっぱら心理学・社会学の書籍に「生きづらさ」への解決策を求めていた私ですが、このケイティ・バイロンという人はこれまでと全く違った角度から私の価値観に切り込んできました。

本の内容に触れる前に、著書が本を執筆するに至った経緯を紹介します。

1986年、バイロン・キャサリーン・リード(「ケイティ」の本名)の人生は、どん詰まりにきていました。10年というもの、パラノイア、激怒、落ち込みがどんどんとひどくなり、何週間も寝込むこともまれではなく、家を出るのも怖くて、歯を磨くことすらできなくなっていたのです。そんなある朝、突然、ケイティは目覚め、現実に対するまったく異なる視点を持つことになりました。そこには、自分が誰であり、何者なのかという概念はまったくありませんでした。

実はこのケイティさん、重度のうつ病からどういう魔法かある朝「すべての苦しみは私の考えが作り出したものだ」という結論にいきなりジャンプし、そこからひとりでに回復したという、すさまじいおばさんなのです。さすがに地元で噂になったようで、周囲の人に求められる形で彼女はその後自らの考えを広めていきます。

正直初めはめちゃくちゃ胡散臭い・・・と思ったのですが、よくよく読めばいわゆるスピリチュアル系や引き寄せなどとは全く違うことがわかります。

ケイティ・バイロンのメッセージの根底にあるのは、「現実は優しい」というキーワード。今起こっていることに対して「こうあるべきではない」と思うところから苦しみが始まる、という仏教のような思想でもあります。いかにして目の前の現実を完全なる調和として見るか、そのために彼女は「自分自身」と「自我の考え」を切り離し、後者を絶えず問いかけ直していくことの重要性を説きます。

この本に出てくる、私のとても気に入っているたとえ話が一つあります。ある少女がいて、その子が指をパチンと鳴らします。すると周りにいた子供達が「すごい!」と言って両手を叩く。そのとき初めてその女の子は周りに人がいたことに気づくのですが、同時に彼女は自分が何か素晴らしいものを発見したことに気づきます。それが他人からの賞賛です。それ以降彼女が指を鳴らすのは、けしてその行為そのもののためではありません。行為の結果たまたま得られた他者からの賞賛が、いかにその人にとって目的化していくかという話です。

本の前半は、私たちがいかに幼い頃から「相手によく思ってもらう、好かれる、愛される」ことに意識を注いでいるかを、あらゆるエピソードを用いて説明します。このような考えがそもそもなければ、私たちはどう振る舞うだろう?いやその方がむしろ、相手のありのままを捉えられるのではないか?「私をよく思って欲しい」と思うあまり、あなたは目の前の相手を見失ってはいまいか?これがこの本の肝です。

実際、私はケイティがここで指摘するような自意識のがんじがらめの最中でした。

この本の素晴らしいところは、気づきを促すエピソードに溢れているだけでなく、ザ・ワークのメソッドが非常に実用的であるという点にもあります。詳細はここでは述べませんが、インターネット上で無料公開もされているので、興味のある人は是非見てみてください。(参照:The Work of Byron Katy)

もう一つ、ケイティの著書によって得た気づきが、「義憤は必要ない」というものでした。フロムの資本主義社会批判に惹かれつつ、小売企業で利益創出のために奔走していた私は、社会のあり方のあらゆる点が間違っているように感じていました。典型的な社会活動家の陥りがちな罠として、「世の中に働きかけるために、社会の現状に怒りを抱く必要はない」とケイティは述べます。怒りは目をくらませ、働きかける相手と、あなたを繋ぐ橋を壊すからです。

義憤は私にとって快感でもありました。なぜなら他人を裁くのは楽しいから。己の正しさを確信し、革命的な世直しを夢見るのは、私にとって一つの娯楽でもありました。しかし現実に一発逆転はありません。また、私が社会に目を向けるとき、そこに私が見出す分断は私の心の投影でもあります。

より良き社会のために、他者のために生きるという目標のそれまでの明確さに、翳りが生まれ始めていました。

「生きづらさ」との格闘と、読書4

手段の目的化

「愛するということ」は平易な言葉で書かれた、非常に読み易い本です。しかしそこに書かれた理論の実践は全く簡単なものではないということを、その後今に至るまで私は痛感し続けることとなります。

はれてマネージャーになり、一年半ほど管理職を務めたあと、私はチームとも上司ともうまくいかなくなり降格を通達され、当時の彼氏とも別れて、自暴自棄の末3ヶ月の休職を取得するという凄まじい転落ぶりを見せました。ふんだりけったり・・・笑

「エーリッヒ・フロム先生のありがたい、ありがたいお言葉をあれほど毎日念仏のように唱えていたのに、どうしたわけだろう?」

船橋法典の一人暮らしのアパートで一人首をひねって考えていた頃、丁度当時ベストセラーになっていた岸見一郎著「嫌われる勇気」を手に取る機会がありました。フロイトやユングに比べてそれまで日本で知名度の低かったアルフレッド・アドラーの名前を、一躍知らしめた一冊です。

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

内容あらすじ:

 「あの人」の期待を満たすために生きてはいけない――
【対人関係の悩み、人生の悩みを100%消し去る〝勇気〟の対話篇】

世界的にはフロイト、ユングと並ぶ心理学界の三大巨匠とされながら、日本国内では無名に近い存在のアルフレッド・アドラー。
「トラウマ」の存在を否定したうえで、「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」と断言し、対人関係を改善していくための具体的な方策を提示していくアドラー心理学は、現代の日本にこそ必要な思想だと思われます。

本書では平易かつドラマチックにアドラーの教えを伝えるため、哲学者と青年の対話篇形式によってその思想を解き明かしていきます。
著者は日本におけるアドラー心理学の第一人者(日本アドラー心理学会顧問)で、アドラーの著作も多数翻訳している岸見一郎氏と、臨場感あふれるインタビュー原稿を得意とするライターの古賀史健氏。
対人関係に悩み、人生に悩むすべての人に贈る、「まったくあたらしい古典」です。

フロイトの精神分析に触れて、何もかもを家庭環境のせいにしていた私に、ここで冒頭からいきなり痛烈なパンチがお見舞いされます。

アドラー心理学では、過去の「原因」ではなく、いまの「目的」を考えます。

われわれは原因論の住人であり続けるかぎり、一歩も前に進めません。 

有名な「トラウマの否定」です。

私たちは過去の原因に規定される存在ではない、それどころか私たちにとって好ましくない結果のように見えるものはしばしば、自分の意思・目的にかなった要請ですらあるという。

例えば、赤面症があるから好きな人に告白できないという女の子に、この本の「賢者」はこう諭すわけです。「好きな人にありのままの自分を拒否されるという最悪の結果を拒むために、あなたは赤面症を必要としているのではありませんか?」

この発想には唸りました。

これを基にすればつまり、私は「親との関係がうまくいかなかったから、生きづらさを抱えている」わけではなく、「ありのままの自分を否定されるのが怖いから、親とうまくいかなかった自分という理由を必要としている」ということになります。親子関係の失敗という材料が手元になければ、他人との関係構築の失敗や、「生きづらさ」を誰のせいにもできない、つまり他でもない自分自身にその原因を求めなければならなくなるというわけです。

アドラーによればあらゆる悩みには他者の影が介在しており、つまり全ての悩みは人間関係の悩みなのだと断言します。「嫌われる勇気」というタイトルの通り、著者は下記のようにメッセージを集約させていきます。

他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。

つまり、自由になれないのです。

他人から愛されるために邁進してきた私には、もはや一種の死刑宣告・・・しかし、納得のいく話ではありました。というのも、そもそもは「生きづらさ」から解き放たれて幸せになるために愛されたいと思っていたはずが、いつのまにか愛されることが私にとって至上の目的と化していたからです。手段の目的化によって私は混乱していました。